第9話 浮かない朝
エリゼは顔を洗い、冷たい水で目を覚まそうとした。しかし、頬に触れる水の感触は心地よいものの、胸の中のもやもやは晴れなかった。
「(――私は帰れないわ。エリゼが私を探しに来るの。塔の一番上で待っているから。)」
再び脳裏に響く母の言葉。
エリゼは鏡に映る自分を見つめ、小さく溜息をつく。
「……考えても仕方ないか。」
今日の目的は「竜神尾の石碑」に向かい、神器を授かること。その前に、支度をしなくては。
リビングに戻ると、ミレイアが既に準備を整え、手際よく食卓の準備をしていた。
「エリゼ、ぼんやりしてないで早く着替えて。朝ごはん、冷めちゃうわよ?」
いつも通りの穏やかなミレイアの言葉。
それがエリゼには、どこか安心できるものに感じられた。
ベッドの上には、綺麗に畳まれた服が用意されている。今日は神器を授かる特別な日だからか、ミレイアが普段より一層しっかりと支度を整えてくれていたのがわかる。
エリゼは「ありがとう」と小さく呟きながら服に手を伸ばし、着替えを始めた。
支度を終えて食卓へ向かうと、そこにはすでに朝食が並べられていた。温かいパンと昨日自分が作ったビーフシチュー、ハーブの香る焼き野菜、チーズが添えられたシンプルな食事だった。
「ミレイア、相変わらず準備が早いわね。」
エリゼが感心しながら席に着くと、まだ一人だけ欠けていることに気づく。
「……ラグナは?」
ミレイアはため息をつき、腕を組んだ。
「まだ寝てるわよ。まったく、呆れるわね。」
言い終わるが早いか、ミレイアはズカズカとラグナの部屋へ向かい、勢いよく扉を開けた。
「ラグナ!いつまで寝てるの?いい加減に起きて!」
布団を乱暴にはぎ取られたラグナは、くぐもった声をあげながら丸まった。
「うう……もうちょっと……あと五分……。」
「今日が何の日か忘れた?」
ミレイアは容赦なくラグナの枕を奪い、ベッドの隣に放り投げる。
「わかった、わかった!起きるから!」
ラグナは渋々体を起こし、寝ぼけ眼をこすりながら部屋を出た。
ようやく全員がそろい、朝食が始まった。
ラグナはビーフシチューを一口飲むと、満足げに頷いた。
「んー!やっぱり、姉さんのビーフシチューは一晩寝かせると更にうまくなるよな!」
「うん。そうね。」
エリゼは静かにスープを口に運びながら、どこかぼんやりとしていた。
ミレイアはそんな彼女を見て、眉をひそめる。
「エリゼ、大丈夫?」
「え? うん、大丈夫だよ!」
エリゼは慌てて否定したが、ミレイアは納得していない様子だった。
ラグナがパンをちぎりながら口を挟む。
「なんか、姉さん、今日ずっとぼーっとしてるよな。」
エリゼは一瞬言葉に詰まる。
——夢のことを話すべきだろうか?
けれど、今話しても余計な心配をかけるだけかもしれない。
「ちょっと寝不足なだけ。」
軽く笑って誤魔化す。
ミレイアは鋭い視線を向けたが、それ以上は何も言わなかった。
食事を終えると、ミレイアはテキパキと準備を始めた。
「食糧はいつもより多めに持って行った方がいいかしら。」
「母さんみたいだな、ミレイアは。」
ラグナが軽く笑う。
「あら、姉さんから急に格が上がったのね。」
ミレイアは冷ややかなトーンで淡々と言いながら、荷物を確認していく。
エリゼもそれに倣いながら、自分の荷物を確認する。
再び夢の言葉が頭をよぎる。
「(――塔の一番上で待っているから。)」
エリゼは無意識に拳を握りしめた。
その様子を見ていたミレイアは、小さく目を細める。
「(やっぱり、何か隠してるわね……。)」
支度を終え、エリゼたちはリュシオンの待つ広場へと向かう。