第43話 休息の間
三人は、扉の先へと静かに足を踏み入れた。
そこは、セプテントリオの塔に入場したとき、初めに降り立った空間によく似ていた。地面には確かに感触があるが、その周囲は闇に包まれ、方向感覚を失わせるような静寂が支配していた。
だが、遥か前方——暗闇の中に、一点だけ微かに光る場所が見えた。
その光に向かって歩みを進める中、ミレイアの背中に抱えられていたエリゼがゆっくりと目を開ける。
「……ここは?」
かすかな声が、静寂を破った。「起きたのね」ミレイアが微笑む。
「ガルムの言っていた、試練の出口の先よ。前に光っている場所があるから、今はそこに向かっているの」
「ラグナとリュシオンは……無事?」
エリゼの焦りを含んだ問いに、ミレイアは安心させるように頷く。
「ええ。すぐそばにいるわ。無事よ」
「……よかった」
エリゼの声に安堵が滲む。ラグナとリュシオンも彼女の目覚めを確認し、表情をほころばせた。
「支えてくれれば、歩ける……!子供みたいだから、下ろして!」
「ええ……これはこれでいいじゃない……」
何故か残念そうにミレイアは笑いつつも、慎重にエリゼを降ろし、肩を貸す。
やがて、一行が光のもとへ近づいたその時——
光の中心に、威厳に満ちた長いローブを纏った人物が現れた。整った身なり、落ち着いた佇まい。それは、記憶にある姿。
「ロンドでございます」
その人物は、静かに名乗った。
「エリゼ様、ラグナ様、ミレイア様、リュシオン様。第一層の試練、クリアおめでとうございます」
礼儀正しい声が、厳かな空間に響く。そして、少し申し訳なさそうな表情を浮かべながら続けた。
「この度は、少々不手際があったようで失礼いたしました。こちらも異例の事態でしたが、状況を確認させていただき、ガルム様からも仰っていた通り、第一層の試練はクリアとして問題ない実力であると評価させていただきました」
その言葉と共に、ロンドが両手を前に突き出す。
指先から溢れる光が、ゆっくりと四人を包み込んだ。
「応急処置ではありますが、動くのに不自由はないかと思います」
エリゼとラグナは、自分の身体がほんの少し軽くなっていることに気付き、目を見開いた。
「すごい……回復してる……」
「なんだこれ……身体が、楽になってる……」
ロンドは落ち着いた口調で説明を続ける。
「第一層をクリアした方々には、これからある場所へ移動していただきます」
「ある場所?」
リュシオンが即座に問い返す。
「ええ。そこは『休息の間』と呼ばれる空間です」
ロンドの声は静かに響く。
「そこでは、人間界と同じように生活することが可能です。衣食住すべてが整えられており、挑戦者自身の意思で、第二層へ挑むか、人間界へ戻るかを選ぶことができます」
ミレイアが眉を寄せて問いかけた。
「……つまり、私たちは、そこで一生暮らしても問題ないということ?」
「はい。それも可能です」
ロンドは頷いた。
「ただし、『休息の間』でも人間は人間界と同じように老い、寿命を迎えます」
ラグナが疑問を口にする。
「食べ物は、無限にあるのか?」
ロンドはふっと微笑んだ。
「挑戦者が寿命まで、一生を不自由なく過ごす程度には、十分にございます。なにせ、『休息の間』エウリディアに入れる人間は、第一層をクリアした方々なのですから」
そう言うと、ロンドの掌から再び光が溢れ、ラグナの腕を包み込んだ。
その光は、ラグナの腕の上で整然とした文字列へと変わり——やがて、皮膚の上に定着するように固定された。
「……なんだこれ……」
ラグナが腕を見つめ、驚愕の声を漏らす。
「『1000万ガルド』……!?」
ラグナの腕に浮かび上がる「1000万ガルド」の文字に続いて、ロンドは静かに手を掲げた。
柔らかな光が再び放たれ、今度はエリゼ、ミレイア、リュシオンの腕へと順に降り注いでいく。その光は優しく三人を包み、やがて同じように「1000万ガルド」という文字列が、それぞれの腕に浮かび上がった。
「……なるほど。人一人が一生暮らすのに十分な金額か」
リュシオンが納得したように呟いた。
「ということは……この先のエウリディアでは、食料などはこの報酬で与えられた金額の中で購入して暮らしていく、ということですか?」
ロンドは僅かに目を細め、感心したように頷いた。
「その通りでございます。ちなみに、塔を諦めた場合には、残りの金額を人間界に持って帰ることもできますよ」
その言葉に、エリゼがふと思い浮かんだ疑問を口にする。
「でも……私たちが塔を諦めた場合って、塔に挑戦した時点の人間界に帰るのよね?ここでおばあちゃんになったら、挑戦した時点におばあちゃんの状態で人間界に戻るってこと?」
ロンドは、面白そうに微笑んだ。
「良い質問ですね。仮にこのエウリディアで数十年生活して老いたとしても、塔を諦めれば、挑戦した時点の身体で人間界へ返されます。ただし、塔を諦めた場合には、この塔の中で得た記憶はすべて消去されます。ですから、違和感なく挑戦した時点の自分に戻ることができるのです」
そして、静かに続けた。
「既に、ある程度の人数がこのエウリディアから人間界へ戻っていますが……特に違和感なく、日常へと溶け込んでいます。また、お金についても同様。引き継いだ金額は、元から自分が所有していた記憶として上書きされますので、第一層の報酬であるとは気づかれません」
ラグナは顎に手を添え、難しそうな顔をしながらも「なんとなく、わかったような……」と呟く。
その隣で、ミレイアとリュシオンは驚きながらも、徐々に納得した様子を見せていた。
エリゼは、ロンドの説明に耳を傾けながら、ふと第一層で見た遺跡の壁画を思い出していた。
母・アリエスに抱きかかえられるように描かれた、自分とラグナの姿——美しく、優しい絵。
「(塔を諦めたら……あの絵の記憶も、自分から消えてしまうんだ)」
胸の奥が少しだけ痛んだその瞬間。
ミレイアがその思いを察したように、そっとエリゼの肩に手を置いた。
「……絶対に諦められないわね!」
微笑みながら、顔をのぞき込む。
エリゼも、力強く笑顔で返した。
「うん! 絶対に!」
その言葉が、空気を少し明るくした。
そうしている間にも、前方の光は徐々にその明るさを増していく。
ロンドは一歩前へ出ると、静かに言葉を紡いだ。
「そろそろのようですね。私の役目は、あなた方を割り振られたお家へとご案内することまでとなっております。もうしばし、お付き合いください」
次の瞬間、奥の光が四人の身体を一気に包み込んだ。
まばゆい輝きの中で目を閉じ、そして——
目を開けたその瞬間、ふわりと頬を撫でる穏やかな風を感じた。
どこか懐かしいような空気。パンの焼ける香ばしい香り、穏やかな話し声。
そして、視界に広がるのは、柔らかな陽光に包まれた、広々とした街並み。
さっきまでいた灼熱の試練の地とは、まるで別世界だった。
——ここが、『休息の間』。
まさにその名の通りの、穏やかな時間が流れる場所だった。