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息子と話をし、少し落ち着きを取り戻した私は改めて夫に切り刻まれたハンカチを見てみた。幸いというべきか、作業途中で刺繍枠を取り付けたまま放置していたため、切り刻まれたのは丸い枠からはみ出している端の部分であった。おそらく刺繍枠の外し方がわからなかったのと、不恰好な形にさえしてしまえばもうどうにも出来ないと思ったのだろう。
「キルト……もしかしたらこれ、直せるかも。」
「ほんと?」
私は夫に切られたハンカチを裁縫箱にしまいこみ、それを持ってキルトと一緒に宿泊先の離宮を出た。もちろん夫にバレないように使用人たちの隙を見て。部屋で作業をしていては、いつまた夫に邪魔をされるかわからないからだ。しかし行く当てもなく、どうしようかと思いながら歩いていると王宮の庭園に来た。
「ママ〜、どこまで行くの?」
「そうね……どこに行こうか……」
「何かお困りごとですか?」
「……グレン様。」
「またお会いしましたね。キルトくんもこんにちは。」
何処からともなく現れて、庭園で声をかけてきたのはグレンだった。ここに来てから、なんだか随分と顔を合わせることが多いような気がする。
「こんにちは!あのね、ママが作ってたハンカチをパパに切られちゃってね、それで直したいんだって!」
「キルト…!そんなこと言わなくていいから……」
「もしかして、王妃様主催のコンテスト用の物ですか?」
「えぇ、そうです……」
「優勝を狙っていらっしゃるんですか?」
「……はい、お恥ずかしながら。」
「それでは急がなければなりませんね。あまり時間もありませんし。もしよろしければ、作業の出来る部屋を用意しましょうか?」
「え…?」
「狭い部屋でも良ければすぐ用意できると思いますよ。どうやら旦那様はあまり協力的で無いようですし。」
数回顔を合わせただけの素性も分からない男性に頼っていいものか悩んだが、背に腹は変えられない。私はグレンの提案に甘えて、作業をするための部屋を借りることにした。
グレンに案内されるがまま着いてきたのは王宮の中。王宮の中は舞踏会の会場にしか入ったことがなかったので、不思議な感じだ。グレンは使用人に何やら指示を出し、その使用人が私たちを一つの部屋へと案内してくれた。
「こちらにどうぞ。舞踏会最終日までご自由にお使い下さい。何かありましたら、こちらのベルでお呼び下さい。」
そう言うと使用人は私たち3人を残して去っていった。グレンは狭い部屋と言っていたが、その部屋はストランド家の客室よりも随分と広い豪華な造りをしていた。王宮の客室を自由に使えるこの人は一体何者なのだろうか。
「こちらのお部屋で大丈夫ですか?」
「はい、十分すぎるぐらいで……本当にありがとうございます。」
「いえいえ。もしよければ、刺繍をしているところを見ていっても?」
「はい、それはどうぞご自由に……そんなに面白いものでは無いと思いますが。」
それを聞くとグレンは何やらご機嫌な様子で、部屋の中央に位置するソファーに腰掛けた。私はその向かいに座り、早速裁縫道具を開けて中からハンカチを取り出す。
「……これは、随分と酷いことを……」
「まだこれぐらいで済んで良かったんです。メインのモチーフまで切られていたら流石に直せなかったでしょうから。」
まずは夫に切られたガタガタの生地を整えるように切っていく。長さを合わせて四角く切ろうとするとかなり小さくなってしまうので、花びらのようにくるくると、長いところはなるべく残して一周切り取る。すると真四角ではなく、ハンカチは花のような形に変わった。
「わぁ…!お花みたい!かわいい!」
「そうでしょ?これからもっと可愛くなるからね。」
切った端はそのままだとほつれるので、その形のまま一周ぐるっと、あえて目立つ色の糸を使い細かなかがり縫いで縫っていく。後は全体のバランスを見て、細かなモチーフも足していきたい。手縫いで全てやるのは大変だが、明日のお茶会までには何とかやり切らなければ。そんな調子で黙々と作業を続けている私を黙って見ていたグレンが、ふと口を開いた。
「……ルレットさん、その傷はどうしたんですか?」
「あ、これですか?えっと……ちょっと、今朝ハサミで……」
たしかに夫からハンカチを取り返す際にハサミでついた傷は少し痛むが、こんなもの大したことではない。それよりも、今は作品を完成させることの方が重要なのだ。
しかしグレンは納得がいかなかったのか、少し怪訝そうな顔をした後に簡単な手当の道具を持ってきて傷を隠してくれた。
「小さな傷といえど侮ってはいけませんよ。細菌が入れば大変なことになりますからね。」
「ありがとうございます……」
「ママ、おてて痛いの?」
「もう大丈夫だよ。グレン様が手当してくれたからね。」
「ほんと?グレン様ありがとう!」
「いえいえ。それよりも、私のことはどうかもっとお気軽にお呼び下さい。」
「ですが……」
王宮のこんな部屋を簡単に用意できるほどの人が低い身分のはずもなく気軽に呼ぶことは憚られたが、それでもグレンは期待に満ちた目でニコニコとこちらを見つめていた。その様子と恩人からの願いということもあり、失礼にならない範囲で今よりも少し気安い呼び方を……と考えて出た答え。
「ええと……では、グレンさん?」
「はい、今はそれで我慢します。」
その後はキルトもすっかりグレンに懐いたようで、私が作業をしていてあまり構えないものだから、グレンの元へ行っては遊んでもらっていた。
「そろそろお昼ですが、何か召し上がられますか?」
時間も忘れて作業していたが、いつの間にか時刻は正午を過ぎていた。それに午後はいつもシェル嬢との約束があるのだがどうするべきか。
「はい、キルトにも何か食べさせないと……それと午後にファブリック家のご令嬢と一緒に刺繍をする約束をしていて……」
「それでしたら食事はこちらに持って来させましょう。ファブリック家のご令嬢にも連絡しておきますので、ここで一緒に作業なさってはいかがですか?」
「何から何までありがとうございます。本当に何とお礼を言えば良いのか……」
「私が好きでやっていることなのでお気になさらず。……そうですね、でも、もし気になるようでしたら一つ貸しと言うことで。」
私に気を遣わせないようにか、グレンは冗談めかして笑いながらそう言った。どうして先日会ったばかりの私にここまで良くしてくれるのかはわからないが、今はただこの好意に甘えることしかできない。