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「酔っ払いの男共に絡まれたそうじゃないか。」
「えぇ……ですがシェル嬢とそのお父上のファブリック伯が助けてくれたので何ともありませんわ。」
珍しく心配でもしてくれているのかと思ったのも束の間、夫が気にしているのはそこではなかった。
「どうせお前が変な気を持たせたんだろう。」
「何ですって…?」
「お前が誘惑したんじゃないかと言っているんだ。」
「何を言っているのですか。そんなことするはずがないでしょう…!」
「はっ、どうだかな。お前みたいな見た目だけの売女はそういうのが得意だろう?」
この男はどれほど私のことを馬鹿にすれば気が済むのだろうか。そしてそんな言い方をするのなら、何故わざわざ金で買ってまで自分のものにしようとしたのか。見た目より中身が大事だと思っているのなら、器量の良い良家の令嬢を娶れば良い話だ。そもそも私はこの男の元に嫁ぎたくなどなかった。自分こそがその見た目で私を選んだと言うのに、他責思考もいい加減にして欲しい。
そして勝手に執着し、嫉妬心を燃やしては私の容姿のせいにして私からあらゆる自由を奪っていく。今はただただ目の前のこの男が憎い。しかしそんな思いを表に出すわけにもいかず、静かに心の中に怒りを秘めていた。
その後はいつもと同じ。何をされたんだとか、どこを触られたんだとか、尋問のような問いに答えながら身体の隅々まで暴かれる。そしてこんな嫉妬に塗れた日は、いつもよりも暴力的だ。一体私が何をしたと言うのか。何でこんな目に遭わなければいけないのか。
――――
心に溜まったモヤモヤした気持ちや怒りをぶつけるのに、刺繍は丁度いい。ぐっすりと穏やかな顔で眠りについているキルトの寝顔を見ながら、淡々と針を生地に刺していく。一針一針丁寧に、しかし素早く、絶対に夫の元から逃れるんだという思いを込めて。また新しく出来た痣をネグリジェの裾で隠しながら、私は夜が明けるまで作業を続けた。
朝になり作品の大部分が出来てきた。今のところイメージ通り、自分でもなかなか満足できる仕上がりになっている。一旦この辺で切り上げようと裁縫道具を片付けていると、キルトが重い瞼を擦りながら目を開いた。
「ママ……?」
「おはよう、キルト。」
「んん……おはよう……」
「ねぇ、キルトは……」
ママとパパ、どっちかとしか暮らせないならどっちがいい?と聞きかけて、寸前でその言葉を飲み込む。何もこんな小さな子供に聞くことではないだろうから。
「もし……好きなところに行けるなら、どんなところがいい?」
「ん〜〜、お花がいっぱい咲いてて〜たくさん走って遊べるところ!」
「そっか、それは素敵ね。」
「ママは?どんなところに行きたいの?」
「そうね……ママは、キルトが居ればどこでもいいわ。」
「ふふっ、僕も!」
キルトと話していると、いつか見た夢での光景を思い出す。あれは何処だったんだろう。自然溢れる緑に包まれた、花の咲く広い大地。あんなに自由な場所でこの子と過ごせたら、どんなに幸せだろうか。そんなことを想像しながら、身支度を済ませた私たちは朝食を食べに向かった。作りかけの刺繍ハンカチをしまうのを忘れ、テーブルの上に置いたままで。
――――
「ママもたくさん食べなきゃだめだよ?たくさん食べなきゃおっきくなれないよ!」
「ママはもう大きいから大丈夫よ。」
「ダメだよ〜!ママはお人形さんみたいに細いもん!」
そんなたわいのない会話をしながら朝食をとり部屋に戻ると、信じられない光景を目にすることになる。ハサミを持った夫が、何かを手に取り切り刻んでいた。一見白い紙のように見えたそれは、よく見ると私が一生懸命縫っていた刺繍のハンカチだった。
「やめて…!!」
思わず叫んだ言葉が部屋の中に響き渡る。私は既に刻まれてボロボロになったそれを、夫の手から奪い取った。その際に、ハサミの先が少し手にあたり白い指を傷つける。
「あぁ、お前のだったのか。すまんすまん。」
夫は笑いながら何でもないことかのように、白々しくそう言ってのけた。私の部屋にあるハンカチが私のものでなければ、一体誰のものだと言うのか。ましてや刺繍途中のものであれば、王妃様主催のコンテストの為に作っている作品だと言うことは一目瞭然だろう。
そうか……だからこの人は……
「何故、こんなことを…?」
「そのハンカチに虫がついていてな。汚いから汚れた部分を取ってやろうとしただけだが?」
「…………」
「あぁ!もしかしてそのハンカチはコンテストに出すものだったのか?それはすまないことをしたな。今からまた作っても間に合わないだろうし、これでも出しておけ。」
それだけ言うと、夫は市販品かはたまたメイドに作らせたものか、よくあるデザインの平凡な刺繍のハンカチを置いて去っていった。もはやあまりの悔しさに涙も出ない。おそらくだが、夫は私の作品を見て、想像以上の出来に恐れたのだろう。万が一にも優勝して王妃様から褒美を授けられれば、何を願われるか分からないということを。夫に切り刻まれたそれを手に持ち呆然と眺めていると、きゅっと私を抱きしめる小さな温かみを背中に感じた。
「ママ……大丈夫……?」
悲しそうな顔をして、私の心配をする小さな子。その顔を見ていると、ひどく胸が苦しくなる。
「大丈夫だよ。急に大きい声だしてごめんね、びっくりしたでしょ?」
「ううん、大丈夫。……ねぇ、なんでパパはママにひどいことをするの?」
「…………何でだろうね?」
「パパはママのことが嫌いなの?」
「……逆じゃないかな。たぶんママのことが好きすぎて、意地悪しちゃうのかもね。」
「好きな人には優しくしないとダメだよ!!」
「そうだよね……ママもそう思うよ。」
息子の純粋な瞳が眩しい。どうか貴方には、その優しさをいつまでも守り続けて欲しい。小さくて温かな身体を抱きしめながら、それだけを心から願う。