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 夫が息子に会いに初めて離れに来たのは、出産から3ヶ月ほど経ってからのことだった。どうやら夫は後継のために子供は欲しかったものの特段子供が好きと言うわけでもなく、産後の顔はやつれ、体型も戻らない私に食指は動かなかったようで、この3ヶ月間は平和な時を過ごせた。理由がどうであれ、私にとっては大変喜ばしいことであったのだ。


 それからは月に数回、夫の気分で離れに訪れるようになり、その度に私はしばしの間息子をメイドに預けて夫と苦痛な時間を過ごさなければならなかった。さらに時は過ぎ、息子が1歳になって頻繁に泣くことが無くなってきた頃、とうとう私たちは母屋へと戻されてしまう。


 その頃にはすっかり私の体型も妊娠前と変わらぬまで戻ってしまい、またコルセットを締め、夫が用意した細身のドレスを身に纏わなければならないのかと思うと憂鬱だった。しかし息子のためにも絶えなければと、それが私の生きていく理由となっていた。


「ママ〜」

 

「なぁに?」

 

「お散歩いこ!」

 

「そうね、今日はお外も晴れてるし少し庭を歩きましょうか。」


 子供が産まれてから変わったことと言えば、多少ではあるが夫からの監視が緩くなったことだ。息子もあっという間に2歳になり、あちこち歩き回るようになったからだろうか。このように息子と一緒であれば、屋敷の敷地内に限りだが外へ出ることも許可されている。


 もちろん2人だけという訳にはいかず、かならずメイドが最低でも1人は付いてくるのだが、それぐらいであれば何の問題もない。広い空を見上げ、外の空気を吸うと少しだけ自由になれた気がする。


「見て〜!お花、きれい!」

 

「そうね〜、このお花はガーベラって言うのよ。」


「ガーベラ?」


 息子と2人で過ごす時間は何よりもかけがいのないものだったが、そんな時でも思わぬ遭遇によって急に緊張が走ることがある。


「何だ、2人で散歩でもしてるのか。」

 

「あ、はい……」

 

「お花!ガーベラ!」

 

「ママに教えてもらったのか?」

 

「うん!」

 

「……そうか、ちょっとパパはママとお話があるから先にメイドと戻っていなさい。」

 

「やだー!ママいっしょ!」


「お坊ちゃま、お菓子をご用意いたしますから先に戻りましょう。」


「いやー!ママー!!」

 

「……キルト、ママもすぐ行くからね。先にギャザーとお部屋に戻って、このお花を部屋に飾っていてくれる?」

 

「……わかった。」


「うん、良い子ね。じゃあギャザー、キルトのこと頼んだわね。」

 

「かしこまりました、奥様。」


 私だって本当は一時たりとも息子と離れたくはない。しかし、夫がこうして私と息子を引き離そうとするときは必ず何かされると分かっている。だからキルトはメイドに預けるしかないのだ。私が夫に貶されているところを見せるわけにはいかないから。


「何でそんな花の名前を知っているんだ?」


 息子がメイドに連れられて行ったのを見ると、すぐさま夫は私を責め立てるように聞いてきた。

 

「前に本で見て……」

 

「嘘をつくな!どうせあの庭師から聞いたんだろ!!」

 

「一体いつの話をしているんですか?それにガーベラは珍しい花でもありませんし……」

 

「そうやって誤魔化そうとしても無駄だからな!おい、フライス!ここにある花は全部違うものに植え替えろ!」

 

「かしこまりました。」


 そうして嫉妬に駆られた夫は執事に無意味な命令を下し、執事もそれに黙って従う。皆、夫の横暴には辟易していることだろうが、一介の使用人が主人に逆らうなどできるはずもない。それに夫の怒りを買えばどうなるかなど、過去の出来事から皆が知っていることだった。

 

「……キルトが待っているので、もうよろしいでしょうか?」

 

「いいわけないだろ!!調子に乗るなよ!!この売女が…!!」


「きゃっ……やめて下さい……」


「お前は大人しく俺に従っていればいいんだよ!!」


 子供が産まれた後も夫の私に対する態度は変わることはなく、日々浴びせられる罵声と暴力に私の我慢も限界に達していた。唯一の救いは、それを子供の前ではまだ隠してくれているというところだろうか。しかしそれもいつまで隠し通せるかはわからない。


 今はまだ2歳ということもあり、この歪な関係性は分からないだろうが、もう少し大きくなれば勘のいい子なら気づいてしまうかもしれない。それに分からなくとも何かを感じているのか、今でも私から離れることを酷く嫌がるというのに。自分のためにも子供のためにも、どうにかして一刻も早くこの男から逃げなければならないという思いが、私の中で次第に大きくなっていった。


「ママー!」


「遅くなってごめんね、キルト。」


 どんな時でも笑顔で迎えてくれる息子を見ると、胸がいっぱいになって、つい涙が溢れ出そうになる。しかし息子の前で涙を流すわけにはいかないと、グッと上を向いて堪える。


 この小さな子を、私のことでわざわざ心配させる必要などないのだ。大丈夫、夫に蹴られて出来た痣もドレスで隠れている。私さえ笑顔でいれば、まだ大丈夫。大丈夫だから。だから、もう少しだけ耐えぬこう。いつか夫から逃げられるチャンスが巡って来るその日まで。


 

 ――――

 


 それから暫くしてキルトが3歳になった頃、ストランド家に一通の案内が届いた。それは王室主催の舞踏会の招待状。案内状には夫の名前だけではなく、私と息子の名前も並んで書かれていた。普段は外出を禁じられているため、あの一件以降、表向きは身体が弱いことにして社交界にも一切顔を出していなかった。しかし今回ばかりはそうもいかない。王家からの招待となれば、流石の夫も断ることは出来ないだろう。


「はぁ……フライス、今すぐ仕立て屋を呼んでこい。新しいドレスを準備しろ。俺の隣に立っても恥ずかしくない様なものを、だ。」

 

「かしこまりました、旦那様。」

 

「お前とキルトは作法の練習でもしておけ。キルトにはお前が教えるんだ。決して俺に恥をかかせるなよ。わかったか?」

 

「わかりました……」


 それから私は一際豪華なドレスを仕立てられ、それに合わせた新しいアクセサリーや靴も一式用意された。ドレスも宝石も、溢れんばかりに買ってくれる金持ちの夫。何も知らない誰かから見れば、もしかすると理想の夫に見えるのかもしれない。私にはそうで無かったとしても。


 そうして準備は着々と進み、私たちは王城のある首都へと向かった。私たちの住むオーガンジー領と首都は馬車で丸3日ほど。そのため舞踏会の期間中は離宮に泊まることになっている。


 今回の舞踏会は何でも16歳になられた皇太子殿下の正式な社交界デビューとのことで、普段は辺境にいる大公閣下から子爵である私の父まで、ありとあらゆる貴族達が顔を揃えるらしい。そのため、舞踏会は1週間にも渡り盛大に開かれるとのことだ。恐らく皇太子殿下の花嫁さがしという目的もあるのだろう。


 位の高い貴族であれば幼いうちから婚約者が決まっていることも少なくないが、皇太子殿下の婚約者はまだ決まっていない。なんでも権力の偏りを避けるために、現国王陛下が皇太子殿下の成長を待ち、あえて婚約者をつくらなかったのではないかとの噂だ。そのため年頃の令嬢達は今頃、心浮かれているのではないだろうか。既に結婚して子供もいる私には何の関係もない話だが。


「――着いたぞ。」

 

「ここが王城……」

 

「そうか、お前は来るのが初めてか。王族にだけは失礼な態度を取らないように気をつけておけ。」

 

「わかりました。」


 思えば実家は位のあまり高くない貧乏子爵家であり、更には若くして結婚しそれからすぐに外出を禁止されていたため、王城はおろか首都の社交界には顔を出したことがなかった。こういった舞踏会自体も久しぶりで、やや緊張してしまう。


「わぁ〜、すごーい!おっきいお城!」

 

「本当だね。おっきくてキラキラしてるね。」


 息子のキルトはそんな緊張とは無縁のようで、初めて見る王城に目を輝かせていた。夜の舞踏会の間、子供たちは宮殿の別室に集められ、子供達だけのパーティーが開かれる。そのためキルトはしばしの間、メイドのギャザーに預けなければならない。私のせいで普段からあまり屋敷の外に出たことのない子だから大丈夫だろうかと心配していたが、そんな心配も他所に、本人は初めて見る光景に至って楽しそうな様子を浮かべていて少し安心した。


「じゃあ、ギャザーの言うことをよく聞いて良い子にしてるのよ?」

 

「わかったよ!……ねぇねぇ」


「ん?どうしたの?」


「今日のママ、すっごい綺麗!」


「本当?ありがとう。キルトもとってもかっこいいわよ!」


 そうして私は可愛い息子から勇気をもらい、豪勢なドレスと宝石を身に纏って隣に立つ夫の腕に手を添え会場に入った。


「――ストランドご夫妻のご入場です。」


 名前を呼ばれ、扉が開き会場に入る。流石王宮というべきか、私がただの子爵家の令嬢だったときに父に連れ回されていたような会場とは何もかもが違った。会場の広さも、人の数も。その大勢の貴族達が、一様にこちらを見ている。


 入場の時とは、本来こんなにも視線を浴びるものなのだろうか。それとも、何かおかしなところでもあるのだろうか。もしかしてこのドレスが派手すぎるだとか、宝石が大きすぎるだとか、何か変なところがあるのではないかと不安に思いながら夫の方に視線を向ける。すると夫はそんな私とは正反対に、酷く満足げな顔で鼻高々に歩いていた。


 しばらくすると、夫の知り合いと思しき数名の貴族がやってきて、声をかけてきた。


「いや〜、お久しぶりですね。こんなに綺麗な奥方がいたのに今まで隠していただなんて。」

 

「全くその通りですわ。ご病気とは聞いていましたけど、今日は大丈夫なんですの?」

 

「ははっ、妻は身体が弱くてね。連れて来たくてもなかなか叶わなかったんだよ。しかし最近は体調もいいから、こうして一緒に来ることが出来たと言う訳だ。」


 息を吐くように嘘をつく夫の隣で、ただひたすらに薄い笑みを浮かべて立っている。ルレット本人はこの状況を、社交界に顔を出さない自分をもの珍しく思っているだけだと思っていたが、それは大きな勘違いであった。実際のところそんなことは貴族達にとっては大した話ではなく、その美貌こそが皆の視線を奪い、興味を惹きつけていたのだ。


 緩くウェーブがかった母親譲りのホワイトブロンドの髪は、王宮のシャンデリアの光を浴びキラキラと輝いて見える。緊張故か伏し目がちの瞳には長いまつ毛が影を落とし、陶器の様に白く滑らかな肌も相まって美しく儚げな印象を与えていた。


 そして今日のために仕立てられたドレスは、ルレットの瞳の色に合わせたグリーンを基調に幾つもの宝石が散りばめられており、身に付けているアクセサリーも全てエメラルド。そうして夫によって創り上げられたその姿はまさしく人形の様であった。


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