新人研修と休憩室
「これで新人登録研修は終わりです。お疲れ様でした~」
雨木たちが外に出た瞬間、熊澤――通称クマが張りのある声を響かせた。
乾いた風が吹き抜け、声が仮設パネルの壁を伝って遠くまで流れていく。
声には周囲への配慮が滲んでいた。
その音を合図にしたように、ダンジョン入口付近にいた数人の関係者がそっと離れていく。
同行していた自衛官のヤマタとカブも、外で待機していた仲間に目配せを送り、事前に預けていた銃を受け取っていた。
ここではあくまで“研修”という建前が徹底されているらしい。
言われなくても分かっている。中で見たことを外で軽々しく口にしてはいけない。
雨木は心のメモ帳にその一文を太字で書き込み、赤線まで引いておいた。
その後は事務所として使われているコンテナハウスに移動し、研修終了の確認書にサインする。
控えを受け取り、簡単な説明を受けて終わった。
仮免許は後日、ダンジョン省から郵送で届くという。
そのあいだは「仮登録者」として最低限の活動が許される。
実質的にはまだ見習い。正式登録の日まで、彼の立場は“暫定”のままだった。
*
今日の新人研修はひとまず終わった。
だが、雨木はすぐに帰る気にはなれなかった。
一度腰を落ち着け、頭を整理したくなったのだ。
この一帯は立入禁止区域ではあるが、警察と自衛隊が駐屯しているため、最低限の施設は整っている。
コンテナを改造した建物が並び、間には仮設の鉄板通路が敷かれている。
足元で鉄板がぎしりと鳴るたび、ここが“仮の拠点”であることを思い知らされる。
その中には事務所、ロッカールーム、そして冒険者が使える休憩所もあった。
休憩室は官民共用で、仮登録者も使えるらしい。簡素なテーブルと椅子、電気ポットと古びたラック、紙コップが並ぶ中、壁の掲示板だけが取り残されたように空白のままだった。
「はい、どうぞ」
クマこと熊澤が紙コップを差し出してくれた。
中身はインスタントのコーヒー。お値段まさかのワンコイン――五百円。
高い。というか、ほとんどぼったくりだ。
熊澤も申し訳なさそうに眉を下げる。
ゴブリンダンジョンは人気がなく、そのせいで予算があまり回ってこないらしい。
人の出入りが多ければ自動販売機が置かれ、人気があれば食堂まで備えられるそうだ。
それに比べれば、この場所は静かすぎる。
格差という言葉が、こんな場所にまで染み込んでいるのかと思う。
五百円のコーヒーを飲みながら、雨木は苦笑をひとつ漏らした。
味は悪くなかった。だが、やはり通う気にはならなかった。
この休憩室を知ったのは偶然だ。
最初はロッカールームで一息つこうとしていた雨木に、
「ロッカーで一人ってのも落ち着かねぇだろ。あっち、使っていいぞ」
と声をかけてきたのがヤマタだった。
この区域では一般人の単独行動は禁止されている。
そのため雨木は、常に誰か――多くの場合は自衛官――の監視下に置かれていた。
今日も最初からヤマタが同行している。
見張りというには穏やかすぎる態度だが、規則だと事前に告げられていた。
そうした事情もあり、休憩室の存在は双方にとって都合がよかった。
ある程度人の目がある空間なら、付きっきりで監視する必要がない。
雨木も、誰かの視線を背に感じながら歩くよりはずっと気が楽だった。
今後もここに来る機会があるなら、休憩室を使おう。
ロッカーでじっとしているよりよほど落ち着く。
椅子に背を預け、雨木はぼんやりと天井の蛍光灯を見上げた。
外に出たばかりだというのに、もう現実が戻ってきている。
さっきまでの緊張も、未知の興奮も、薄い空気の中に溶けていくようだった。
それでも、ここから先へ進まなければ何も始まらない――そんな思いだけが残っていた。
正式な冒険者になるには、最低でも“魔石を五つ”持ち帰る必要がある。
それが次の試験内容だと、熊澤から聞かされた。
そのためには一度帰宅し、改めて電話で予約を取り直して――また出直して来なければならない。
出直しの段取りを考えただけで、雨木はもう面倒くさくなってきていた。
吐き出した息が薄い空気を震わせた。
「どうかしたのか?」
その吐息を拾ったのか、ヤマタが声をかけてきた。
「いや、面倒だなと思って。次の予約とか、取り直しが」
「ああ、それか。確かに手続きは面倒だよな。
次の予約を取らないまま放置して、そのまま辞める奴も多い。
せっかく初回を突破したのに勿体ない話だ」
「気持ちは分かります。一度帰ると億劫になりますからね」
自分でも意外なほど素直に言葉が出た。
出直しの手間を考えると、再就職という選択肢が頭をかすめる。
研修は収入ゼロ、むしろ受講料を払って当然の立場。
冷静に計算すれば、効率の悪さばかりが目についた。
「……せめて、このままもう一度入り直せれば良いんですけどね。それなら喜んで行きますが」
「はは、勇ましいな。そう言い切れる新人は滅多にいないぜ。
大抵はそこで腰が引けるもんだ。
ん? 別に資格保有者は、立入禁止区域から外に出ない限り、その日のうちに入り直すのは認められてるはずだ。仮免だと、どうだったかな……」
ヤマタの独り言めいた声が耳に届いた瞬間、雨木の身体が反射的に動いた。
「――それ、本当ですか?」
立ち上がっていた。
背筋を駆け上がった熱がそのまま言葉になり、前のめりに食いつく。
ヤマタは少し目を瞬き、それから短く頷いた。
「確認は必要だが……少なくとも、禁止ではなかったはずだ」
雨木の口元に自然と笑みが浮かぶ。
煩雑な規則の隙間を、ほんの少しでも掻い潜れるなら、それだけで一つの武器になる。
彼はその事実を噛み締めながら、紙コップの残りを一息に飲み干した。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




