沈黙の砂時計
雨木楓真の掌に、本が現れた。
黒い表紙に淡い光が滲み、呼吸のように脈を打つ。
それが――『記録書』と呼ばれるものだという。
ダンジョンに入る資格とは、このレコルドを“出せる”こと。
この現象は、向いているとダンジョンに見なされた者にだけ起きる。
兆候は体液の流出。鼻血、涙、汗、あるいは――もう少し処理が面倒な種類のものまで。
発現率は三割前後。つまり、雨木楓真は“選ばれた”。
鏑木が手にした砂時計を持ち上げて見せる。
砂はすでに落ち切り、底の白が沈黙のように広がっている。
「こいつは五分計れる」
砂時計を揺らしながら鏑木が言う。
「あんたが入った時に、ひっくり返して計ってた」
「五分? 短くないですか」
「最初の五分で何も起きない奴は、ダンジョンに何時間いても絶対に起きない。これは自衛隊でも警察でも、国レベルで確認されてる」
五分で兆候が出なかった者は、 “ノービス”――非適性者。
そこで線が引かれる。冷たく、はっきりと。
――資格を得たことは、軽々しく口にしない方がいい。
ダンジョンに認められなかった。けど、どうしても入りたい。
そんな想いが、人の倫理を突き崩すこともある。
“人を殺してでも、その資格を奪いたい” ――そう考える奴が、ゼロではない。
息をつき、雨木は思う。さすがに自分はそこまで狂わない。
……少なくとも、今のところは。
けれど、それは資格を得た今だから言えることだ。
もし自分が“ノービス”だったら、冷静でいられただろうか。
何時間ダンジョンにいても結果が変わらないと知らされて、それでも納得できる人間が、どれだけいる。
国家機関「特殊空間管理省」――通称ダンジョン省。
雨木は、手続きを終えてここに来るまで、書類の山を越えた。
ノービスも同じだ。
わざわざ面倒な申請をして、ここまで来る。
そして五分で「無理でしたね」と言われたら。
壊れる奴もいるだろう。
☞『殺してでも奪い取る』
笑えない話だ。
だから、黙っておくのが正解。
雨木は心の中で頷く。 この件の続きは、ダンジョンを出てから考えようと決めた。
気持ちを切り替える。
「分かりました。冒険者だと外では名乗りません。二十四時間身構えて生きるより、その方が安全でしょうしね」
「察しが良くて何よりだ」
ヤマタが頷く。
「どこで誰に狙われるか分からないから、本当に気を付けてくださいね」
熊澤が緊張していた顔を少しだけ緩めてそう言ったのを見て、少しだけ安心した。
なるほど――そういえば、思ったよりも冒険者の顔出しは少ない。
その理由に、ようやく雨木は思い至る。
ダンジョンでは電子機器が使えない。とはいえ、もっと映像や考察が出回っていてもいいはずだ。
けれど、誰が冒険者か分からないほうが、安全に決まっている。
霞が関にあるダンジョン省を思い出す。
入口には表示もなく、ロビーにも案内板がなかった。
到着連絡を入れたあと、スマホに届いた指示を頼りに歩かされた。
複雑な経路を抜けて、やっと受付。
今思えば、あれも徹底した秘匿のためだったのだろう。
個人情報は提出済み。
つまり、余計なことを喋った奴は――。
考えたくもない。
守秘、これが冒険者の最初のルールだ。
その後に行われた講習で、レコルドの扱いを教えてくれたのはヤマタとカブだった。
熊澤はノービスなので、手を出すこともできない。
手持ち無沙汰のようだったが、仕事だから仕方ない。
雨木は、何か声をかけようかと考えたがやめておいた。今は、それが正解だと思えた。
そんな講習の最後に、ヤマタが妙に真顔で言った。
「警察は顔でアテンド役を選んでるなんて話もあるくらいだ。充分気を付けてくれ」
意味が追いつかず、雨木は瞬きをする。
……あぁ、自分が合格した“資格者”だと知っている、未資格者は今のところ熊澤だけか。
一瞬、妙な考えが雨木の頭をよぎる。
視線を向けると、彼女が気まずそうに笑った。
「……誤解ですよ? 確かに警察はアテンド役に、ノービスで未婚の、見た目の良い女性を割り当ててますけど。
でも、これは登録者の方に通ってもらえるようにっていう、あくまで“接客”の一環ですから」
さらりと、そして今日いちばんの笑顔で言った。
「雨木さんも、私でよかったでしょ?」
……熊澤は、あっけらかんと“顔採用”を口にした。
雨木は一瞬、返す言葉を失う。
「ちなみに、連絡先の交換は許可されてます。交換しますか? 私は構いませんよ? その場合、このダンジョンに限ってですが、私が今後も担当になりますし」
熊澤が言い終えると、雨木は軽くうなずいた。
彼女が担当になるのなら、それも悪くない。
「んー……熊澤さんが担当は嬉しいですけど、ここ……ゴブリンダンジョンなんですよね」
「そうなんですよ。三週間ぶりの来場者なんです、雨木さん」
「マジか……噂通りだな」
ゴブリンダンジョンは、稼ぎが少なく難易度はそこそこ高い。しかも人型だ。
仕留めたときに妙な後味が残るという話もあり、人気がない。
それでも、初回研修には都合がいい場所だった。
最寄りで、短時間で終わると聞いていたからだ。
実際、ここまでで三十分も経っていないはずだと雨木は思う。
スマホも腕時計も外しているため、正確な時間は分からない。
「ゴブリンダンジョンはな、みんなそう言うんだよな。クマ、残念だったな」
「ちなみに初回の研修は二か月ぶりだっけ? それで超緊張してたんだぜ、こいつ」
「うっさいヤマタ! 鏑木! 緊張くらい仕方ないでしょ!!」
軽口が飛び交い、緊張が少しだけ緩む。
雨木は深く息を吐き、一歩を踏み出した。
空気が変わる。
初回研修――終了。
目の前の景色は昨日と同じだ。
けれど掌の中には、確かに“記録書”があった。
そこから、新たな記録が刻まれはじめている。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




