ダンジョンは見ている
突如、鼻の奥に熱が走った。
直後――ぽた、ぽた、ぽたと。
口を伝い、顎を超え、胸元の作業服に真紅の染みが広がっていく。
痛みはない。ただ、不可解さと焦りが一気に押し寄せた。
よりによって初日、それも研修のこのタイミングで鼻血とは、間が悪すぎる。
「落ち着け。鼻血なら大丈夫だ。クマ、救急セットを」
冷静に声をかけてきたのは、スキンヘッドの自衛官――矢又だ。
淡々とした口調。だが「鼻血なら」と限定してくる辺りに、雨木は小さな違和感を覚えた。
落ち着けと言われても、ダンジョン初日で入って数分。
何もしていないのに鼻血が出れば、焦らない方がおかしい。
「え、えっと……雨木さん、これ……」
熊澤がポケットティッシュを差し出す。
動作は手慣れていたが、表情には明らかな戸惑いがあった。
肩にかかる髪を軽く内巻きに整えた、真面目そうな女性警察官。
あだ名の“クマ”が似合わないほど整った顔立ちをしている。
(……クマって、もっとこう、無骨なタイプを想像してたけど)
場違いな連想が頭をよぎり、自分でも呆れる。
それでも少し落ち着いてきたのか、思考に余裕が戻っていた。
「……別に、エロいこと考えてたわけじゃないですよ? なんか突然出てきたんです」
沈黙に耐えきれず、余計な言葉が口をついた。
言った瞬間、雨木は内心で頭を抱える。やっぱり落ち着いていなかった。
「ぷっ、そんなことで鼻血出る人なんていませんよ。漫画じゃないんですから」
熊澤がわずかに笑う。
その表情があまりに自然で、雨木は思わず返す言葉を失った。
緊張が和らぐ。警察官も、人間だ。
「鼻血なら、そろそろ止まるはずだ」
目つきの悪いもう一人の自衛官――鏑木が静かに言う。
落ち着き払った声で、まるでこれが日常の出来事のようだ。
「そうなの? 雨木さん、どうですか?」
熊澤の促しに、雨木はティッシュを外して確認した。
血は止まっていた。染みも広がっていない。
「……止まってますね。けど、これってよくあるんですか? 初めての人が鼻血出すとか」
「よくはねぇが、たまにある」
矢又が肩をすくめる。
その言葉に、雨木は思わず眉をひそめた。
(たまにあるって、どういう空間だよ)
「細けぇこと気にすんな、男だろ。どっしり構えてりゃいい。……おい、クマ。続き、忘れてねぇか」
矢又の言葉に、熊澤が「あ、はい」と頷く。
そうだ。今は研修中――資格試験の真っ最中だった。
熊澤が小さく咳払いをひとつ。静寂に音が落ちる。
(まさか……鼻血で不合格なんてこと、ないよな)
「えーっと……雨木さん。改めまして――ダンジョン免許取得試験、合格です。おめでとうございます」
言葉を聞いた瞬間、雨木の思考が一瞬止まった。
続けざまに、矢又と鏑木の声が重なる。
「おめでとさん」「おめでとう~」
どうやら本当に合格らしい。
だが納得できない。あまりに早すぎる。
「えっと……研修って聞いてたんですけど。入っただけで、もう合格なんですか?」
「研修には違いないさ」矢又が腕を組む。「空間酔いのことは知ってるだろ? それをクリアできなきゃ始まらねぇ」
「それは分かります。でも俺が知りたいのは、その“先”です」
真面目な口調に、矢又が小さく頷いた。
「空間酔いは肉体の適性を見る試験だ。
だが、もう一つある。“向いてるかどうか”。
つまり――ダンジョンに気に入られるかどうか、だ」
「……気に入られる? 誰に?」
「ダンジョンに、だよ」
雨木は思わず眉を上げた。
スピリチュアルじみた言葉だが、矢又と鏑木の顔には冗談の色がない。
「アマギ、あんたは問題なく“向いてる”側だ。しっかりダンジョンに気に入られた。それは俺とカブ、二人が証明する」
「……熊澤さんは?」
「クマは“ノービス”だからな。証明はできねぇ」
「ノービス?」
「“向いてなかった”側の人間って意味だ」矢又が静かに続ける。
「初めてダンジョンに入った時、向いてる奴は少しだけ体の構造が書き換えられる。
その兆候が“液体”だ。体液がどこかから出てくる」
「……それで俺、鼻血出たのか。いや、先に言ってくださいよ」
「でもまあ、鼻血ならマシな方だぜ」
矢又が遠い目をする。鏑木が口の端で笑った。
「対応が大変な液体の話、するか?」
「いや、結構です」
雨木は即答する。嫌な予感しかしなかったからだ。
ちらりと熊澤を見やる。
制服姿の美人警察官――ノービス。
つまり、“そっち”ではなかった側。
(なんか……申し訳ない気がしてきた)
「その顔、変な想像してねぇか?」鏑木が鋭い目を向けてくる。
「いえ、公務員って大変だなと思って。再就職先に考えてましたけど、やめとこうかなと」
「そういや退職して冒険者資格取りに来たんだったな」
矢又が笑う。
「断っとくが、俺たちは手は出さねぇぞ。自分で処理だ」
「……あ、そうなんです?」
「ロッカールームに洗濯機と乾燥機があったろ。あれ、有料だけどそういうとき用だ。
ダンジョンは何が起きても自己責任。覚えとけ」
「了解です」
雨木は苦笑する。
(なるほど……そういう現場ってことか)
冒険者免許――正式名称はダンジョン入場資格。
証明書が発行されるから“免許”と呼ばれている。
手続きとしては合格、らしい。
けれど実感はほとんどなかった。
鼻血で合格、というのもどうかと思う。
だが、鼻血で済んだのは運が良かったのだろう。
(――ま、そう思っておくことにするか)
胸の奥で、不安と、それ以上の好奇心が静かに息をしていた。
砂が落ちきったその先――ダンジョンは確かに、彼を見ていた。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




