砂が落ちるまで
ポータルをくぐった瞬間、空間が裏返るような奇妙な感覚に包まれた。
耳鳴りのような静寂。まるで水中に沈んだような鈍い圧迫感が一瞬だけ身体を包み、すぐに引いていく。
視界がぼやけ、白が弾け、そして次の瞬間には、雨木楓真はそこに立っていた。
――ダンジョンの内部に。
気づけば、薄暗い空間の中だった。
天井は高く、ゆるくアーチ状に湾曲し、黒ずんだ石が苔むしている。
壁はところどころ土がむき出しになり、風化した石と土が混ざり合っていた。
床もまた石と土が入り交じり、不揃いな地面が続く。踏みしめるたびに砂が微かに舞い上がった。
風がないはずなのに、わずかな空気の流れが頬をかすめる。
気のせいかもしれない。だが、その違和感だけで、ここが現実ではないと理解できた。
人工の明かりはなく、天井のあちこちに埋め込まれたような淡い発光石が光を放っている。
おかげで視界はかろうじて保たれているが、色彩はすべて鈍く、黄土色に沈んでいた。
息を吸うと、乾いた土と石の匂いが鼻を刺した。
ここは、もう地球じゃない。
その事実を、五感のすべてが告げていた。
「立てますか? ふらつきは?」
背後から声がして、雨木は振り返る。
案内役の女性警察官――熊澤がいた。
制服姿のまま落ち着いた表情を保っているが、その目だけは僅かに鋭い。
空間酔いは、ない。
「……問題ありません」
短く答えると、熊澤は頷き、手早く確認を始めた。
「では、まっすぐ歩いてください。次にその場で回れ右を。はい、次はジャンプを三回」
淡々とした指示に、雨木は従う。
歩く、回る、跳ねる――どれにも支障はない。視界も安定しており、息切れもない。
「異常なし。空間酔いの兆候も見られません。合格です」
熊澤の宣言に、雨木は胸の奥で小さく息を吐いた。
空間酔い――ダンジョンに入った者を最初にふるい落とす試練。
車酔いに似た症状で、吐き気や眩暈が止まらず、立っていられなくなる。
この関門だけで、受験者の四割近くが脱落すると言われていた。
一度でも兆候が出れば、以後も必ず発症する。適性がなければ、永遠に門前払いだ。
「よし、最難関だと思ってた空間酔いはクリアだな」
小さく息を吐きながら、雨木が口にする。
そして顔を上げ、近くにいる鏑木へ問いかけた。
「これで終わりですか? 次は何かあるんですか?」
鏑木がちらりと視線を向け、肩をすくめる。
「なーんも」
それだけ言って、少し間を置いてから続けた。
「もう分かってると思うけど、俺たちは空間酔いで失格になった奴を力づくでダンジョンから引きずり出すためにいる」
矢又がその言葉を受けるように口を開いた。
「これが意外に多くてな。合格した奴は別にごねない。だが落ちた奴に限って、ごねる。暴れる。下手すりゃ奥に進もうとする。
空間酔いってのは体質だ。なる奴は何度入っても必ず発症する。治らない。ダンジョンから出るまで、絶対にな」
矢又の口調は淡々としていた。だが、それが経験に裏打ちされた確信に聞こえた。
鏑木が腰のポーチから小さな砂時計を取り出し、片手で掲げてみせる。
「俺たち自衛隊じゃ、空間酔いする奴はダンジョン任務には就かせねえ。警察も同じだ。
だが、それを理解できねえ奴はどこにでもいる。
だから念のため、この砂が落ちるまで待つ。
砂が落ちたら外に戻ってもらう。次の説明はそこでだ。
安心しろ、なる奴は入ってすぐに症状が出る。
つまり――雨木。あんたは空間酔いにはなんねえよ」
自衛官らしい合理的な説明だった。
つまり、この砂が落ちきるまで、何もせず過ごせばいい。
そこまで何も起こらなければ――自分は次に進める。
(自衛官も、なかなか大変なんだな)
雨木はそんなことを思った。
この仕事は、単なる護衛ではない。
人が絶望する瞬間や、感情の暴発と向き合う現場でもある。
隣を見ると、熊澤――“クマ”は少し離れた位置に立っていた。
表情は崩さず、ただ静かに様子を見守っている。
その肩の張り方に、緊張と責任感の硬さが見えた。
余計な言葉を控え、職務を全うする判断。
(……真面目な人だな)
自然と、そんな感想が浮かぶ。
やがて、ゆっくりと時間が過ぎていく。
砂時計の中の砂が、じりじりと落ち続けていた。
「そろそろですね」
熊澤が砂時計を見ながら呟く。
「ああ、アマギ。あんたは聞き分けがよくて助かる」
矢又が笑い、軽く肩をすくめた。
「砂時計が落ちきったら、一度外に出てくれ。外でこの後の説明をする。中でやって魔物が来たら、面倒だからな」
「了解です」
そう返そうとした瞬間――胸の奥に、微かな熱が走った。
鼻腔の奥が急に熱くなる。
「……なんだ、これ……」
次の瞬間、鼻から熱いものが溢れ出した。
鼻血だった。
ぽた、ぽたと、足元の土に赤い染みが広がっていく。
反射的に鼻を押さえ、驚きと困惑で目を見開いた。
何が起きているのかは分からない。
ただ確かに――体の奥から、何かが溢れていた。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




