現実の終わり、境界の前で
冒険者暦一年目・六月
六月の朝はどこか湿っぽい。曇った空の下、駐屯地の構内には短いサイレンが響いた。
乾いた音が空気を震わせ、研修開始の合図を告げる。
雨木楓真は、肩を軽く回して息を整えた。
空気は少し重い。
梅雨の前触れのような湿度の中に、かすかな鉄の匂いが混じっていた。
これが、自分の“冒険者一年目”の始まり。
そう思うと、胸の奥がわずかにざわめいた。
緊張ではない。ただ、未知を前にした実感が、静かに心を叩いていた。
彼がこの場に立つまでには、少し時間がかかった。
昨年十二月に退職を決めてから、会社は最後まで妨害してきた。
退職届は放置、必要書類は後回し。
「手続き中です」の一点張りで、引き延ばされる。
――ああ、これが社会人特有の“嫌がらせ”か。
そう思ったが、特に腹も立たなかった。
自分もこの世界に十年いた。やり口くらいは知っている。
(……はぁ、これは時間がかかりそうだな。素直に辞めさせてくれりゃいいものを。どうせお馬鹿ボンボン丸の嫌がらせだろうけどさ。
ったく、白石の手前、前の男を引き留めたってアピールがしたいのか。それとも器のデカいとこでも見せたいのか。
どっちにしろ、こっちには迷惑でしかない。どいつも自分のことしか考えない。……ほんと、うんざりだわ)
退職手続きが進まないなら――先に次の準備を進めよう。
雨木はダンジョン入場資格の申請書類を作り始めた。
取り寄せた申請書は、驚くほど項目が多かった。
書類は妙に細かく、記入欄の多くは「該当なし」としか書けないものばかりだった。
それでも欄を空けると差し戻されるらしい。
結局はこれもお役所仕事か、と雨木は肩を落とした。
ダンジョンの中でのことはすべて自己責任。
そう書き出された説明文の通り、誓約書の束が続く。
ダンジョンに入り、戻らなかった場合の処理、その際の連絡先の記入。
さらに、「その責任は入場者本人にのみ帰する」という明記。
怪我も死亡も、すべて保険の適用外。
そこまで細かくサイン欄が並ぶ様子に、さすがの雨木も苦笑した。
だが、その覚悟がある者だけがダンジョンに入れる。
たとえ失うものが命であっても。
現在、ダンジョンに入る者は“冒険者”と呼ばれている。
創作の中から現実に出てきたような呼び名だ。
雨木は、その呼び名を思ったより嫌いではないと気づいて、口の端をわずかに上げた。
テレビの向こうの言葉だった“冒険者”が、もうすぐ自分の肩書きになる。
その事実が、少しだけ可笑しかった。
その手続きの途中で、“在職証明書”の提出を求められる。
だが会社が応じる気配はない。
そこで、思い切ってダンジョン省に相談することにした。
電話の向こうで、若い職員が淡々と言う。
「会社側が応じない場合でも、本人の意思表示が優先されます。
こちらで確認照会をかければ処理できますので、ご安心ください」
――ダンジョン省。
正式名称は「特殊空間管理省」。
まだ若く新しい省だが、それでも霞が関。
言葉ひとつで流れが変わる。
その言葉通り、数日後には書類が揃い、退職日も確定した。
引き継ぎを終え、残りの一か月は有休消化にあてる事が出来た。
退職日が五月末になったのは、三月の決算までは残る――そんな、雨木なりの最後の情けだった。
そして今日。六月の初め。
彼はようやく、自分の新しい職場――ダンジョンの入口に立っていた。
目の前には、銀色に揺らめく楕円形の裂け目がある。
地面から垂直に立ち上がり、表面は水面のように光を返していた。
だが、水ではない。
風も流れず、温度も感じない。
ただ、鈍い光がゆっくりと呼吸するように揺れている。
これが、ダンジョンの入口――《ポータル》。
それは雨木が想像していたよりも、穏やかに見えた。
もっと異世界めいた光景を期待していたのかもしれない。
だが、実際に目にしたそれは、思っていたよりずっと静かだった。
胸の奥が確かに高鳴っていた。
恐怖ではない。
これから踏み出す場所が、本当に“別の世界”なのだと、
そう思った雨木は、自分の口元がわずかに笑んでいることに気づく。
まだ異世界ではない。けれど、十分に“現実ではない場所”にいた。
周囲は高いフェンスと監視カメラ。
警察官と自衛官が警戒に立ち、全員が武装している。
その銃口の先は外ではなく、時に内側――
つまり、これから入る人間にも向く可能性を想定できる。
雨木はその無言の圧力を観察していた。
この場所は“国家の領域”。
許可なき侵入も、横流しも許されない。
金を稼ぐ場所である前に、国家資源の最前線。
冒険者は、その巨大な仕組みの中で動く、歯車の一つにすぎない。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




