稼ぎと命の境界線
国道を走る車の音が、遠い世界の残響のように聞こえていた。
住宅地の外れ。造成途中の小さな山を囲うように、白い仮設壁が立てられている。数年前、突如として現れた穴を封じ込めるために設けられた囲いだった。
その内側に口を開けているのがゴブリンダンジョン。名前の通り、ゴブリンが徘徊する不人気の異空間である。
人気の「肉ダンジョン」とは対照的に、ここには人影が少ない。
門前に立つ自衛官と警察官を除けば、柵の外には注意書きと立入禁止の立て札が並ぶだけ。
空気には取り残された施設のような寂しさが漂っていた。
「これで手続きは完了です。……前回も言いましたけど、無理だけはしないでください。ここ、人気は無いんですけど、怪我人はそれなりに出てますから」
事務所の簡素な机越しにそう言ったのは、警察官・熊澤恵美 二十六歳。
研修時からの顔馴染みで、この区域の管理を交代で担当している。
制服越しにも分かる均整の取れた体の線。派手ではないが整った顔立ちで、視線を向けられると軽く息を整えたくなる。
「了解です。無理はしないつもりです」
雨木は頷いた。二度目の手続き。声にも自然と落ち着きがあった。
「そうしてください。正直、もう来ないと思ってました」
熊澤は穏やかに笑った。
その奥にほんのかすかな安堵が混じることを、雨木は察した。
彼女にとって、再訪は予想外だったのだろう。
「はは……三度目の約束はちょっと難しいですけどね。他のダンジョンも見てみたいですし」
軽く肩を竦めた言葉に、熊澤の笑みが一瞬だけ翳った。
その刹那の陰りが妙に雨木の印象に残る。
だが、それは雨木の足を止める理由にはならない。
雨木にとって、冒険者としての価値は稼ぎに尽きる。
稼げるなら潜るし、稼げないなら離れる。
命を懸ける以上、懐を潤すかどうかがすべてだ。
このダンジョンを選んだ理由も単純だ。
自宅から近く、予約が取りやすい。
研修で使ったことのある、勝手の分かる場所。特別な思い入れはない。
実際、彼はすでに世田谷の肉ダンジョンにある臨時パーティへの参加申請を済ませている。
五人枠の最後の一席。わずかでも遅れていれば消えていた。
運が重なっただけ。けれど、そういう巡り合わせもまた稼ぎのうちだ。
熊澤と短い世間話を交わし、雨木はロッカーの鍵を受け取る。
番号を確かめ、無言のままロッカールームへ向かった。
◆
ゲートを抜けた瞬間、世界が切り替わる。
冷えた空気が肌を撫で、湿った苔の匂いが鼻腔を刺した。
「……何度来ても、不思議な感覚だ。どうにも、慣れねぇ」
雨木はひとつ息を吐き、周囲を見回した。
右、左、もう一度右。問題はない。
前回潜ってからまだ数日。入口周辺はおそらく安全だ。
「……よし、今のうちだ」
今回の雨木が前回と違うのは準備期間があったことだ。
背にはリュックサック。脇にスポーツバッグ。右手には牛丼屋の包みを握っている。中には牛丼の大盛が三つ入っている。
これは賭けだった。
もし入口周辺にゴブリンがいれば、これらを投げ捨てて戦うことになる。
リュックやスポーツバッグは兎も角、牛丼の命はなかっただろう。だが命には代えられない。
「賭けには勝った。小さな賭けだけどな。勝ちは勝ち。さて書を解放せよ。
続いて現象を転写せよ、現象を転写せよ、現象を転写せよっと」
雨木は呼び出した記録書に、カード化した荷物を差し込んでいく。
彼の記録書のアイテムスロットは九つ。
今日までは何も刺さっておらず、まだ六枠空いている。
「人のスロットまで干渉しないと思うけどね。初めて会う面子の前でやるのも、感じ悪いかもしんないし」
ダンジョンドロップはアイテム・レコルドに入れなければ地上へ持ち出せない。
参加者の中には「スロットに余裕を持たせておけよ」などと文句を言う輩もいるだろう。
だが今回の肉ダンジョン野良パーティは五人枠だ。
低階層のドロップ率が高くないことも考えれば、全員のスロットが埋まるほどのドロップが出る期待は薄い。
そう考え、一人で入る今こそ荷物を先に持ち込んでおくことにした。
「ま、埋まったら牛丼を食えば良いしな。魔物をおびき寄せる餌にもできる。最悪腐ったらダンジョンにぶちまければ勝手に消えるみたいだし。
何にしてもカード化した場合の時間経過の確認は必須だ。流石に時間停止までは望めないだろうが、確認は絶対だ。入れたままだとどうなるかだけは確かめておかないと」
カード化できるのはダンジョンに持ち込んだ物だけ。
だがカード化の解除は地上でも可能だ。
レコルドを出しているところを、誰かに見られさえしなければ問題はない。
雨木はその点は心得ているし、迂闊に行うつもりはない。
雨木にとって、これは必要な確認だった。
リュックサックには日用品が詰められており、急な外泊にも対応できる。
スポーツバッグには作業服の予備や替えのバールなど、ダンジョン用の装備が入っている。
「立入禁止区域の中に入っちゃえば、レコルドを出しても問題ないしな。ふふ、これでダンジョン周辺までは手ぶらで来られる。さすがは俺、抜かりない。
……という自画自賛をしたところで、行こうか。さて、お仕事の時間だ。気を引き締めろよ俺」
内心では雨木も、この程度の用意は誰でも思いつくだろうと分かっている。
二度目といえど完全に恐怖が消えたわけではない。
独りという環境で、それを紛らわすための、ただの軽口だ。
消えた荷物はカードとなり、記録書の中へ収まる。
記録書もまた、雨木の唱える「書を封印せよ」の言葉とともに静かに消えた。
残された右手にはバールを。左手にはトンファーを握る。
素手では絶対に戦わないと、雨木は決めている。
ゴブリンの爪や牙は鋭く、引っかかれば感染症の危険がある。感染症で死ぬなど、考えるだけで寒気が走った。
だが、雨木には前回の経験がある。
奴らの動きは単純だと知っている。
狭い場所に潜むか、曲がり角で待ち伏せを仕掛けてくるのが常套手段だ。
知らなければ危険だ。だが、知っていれば対処は容易い。
ゴブリンの体躯は一メートルほど。
百八十センチを超える雨木の正面からの力には敵わない。
これも前回の戦闘で確信した。
だが油断はしない。囲まれれば不利なのは人間の方だ。
湿った空気の中を、雨木はゆっくりと進んでいく。
足元の砂がわずかに鳴るたび、耳が自然と研ぎ澄まされる。
壁際には崩れた石片、割れた木箱の残骸。
どれも前回と変わらない――が、ひとつ違和感があった。
通路の奥、灯りの届きにくい角に、子供が潜れそうな物陰がある。
落ちた瓦礫と崩れた木箱が積まれた山。
それにしては形が整いすぎていた。
雨木は立ち止まり、息を潜める。
数秒、音を聞く。気配はない。
それでも確信は持てなかった。
「……怪しいな」
右手に持ったバールの位置を少し下げ、角度を調整する。
「ゴブリンダンジョンじゃ、怪しいは即死刑だ!」
距離を取ったまま、腕の力を込めてバールを突き出した。
――グチャ。
肉を裂く手応え。
「ギィィィッ!」
甲高い悲鳴とともに、影から小さな影が飛び出した。
牙を剥き、爪を振り上げた瞬間、左腕が動く。
トンファーが横に回り、叩きつけた。
――ガギッ。
骨が軋む音が雨木の左腕に返る。
ゴブリンは弾かれたように転がり、光に包まれて消えた。
残されたのは、鈍く光る小さな魔石ひとつ。
雨木はそれを拾い上げ、掌で転がす。
重みのない石片。命の痕跡は、それだけだった。
「ふー……さすがに最初の戦闘は、まだ緊張するな。だけど問題ない。
殴っても、叩いても、……殺しても、俺は何も感じない。俺はやれる。
あれは魔物。殺せば金になる。なら殺す、それだけだ。
感じるな、考えろ。最短距離で、最適な攻撃を、最速で加える。一瞬一瞬を全力で、それを繰り返すだけだ」
小さく息を吐き、魔石を腰ポーチに収める。
まだ一階層。それでも、油断すれば喰われる場所。
ここはダンジョン。――死と利益の境界線。
「ふふ、要するに稼ぐか喰われるかだろ。分かりやすくて良い。結構、……俺好みだ」
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




