クソオトコの選択
助手席のドアが閉まったあと、車内には音がなかった。
外の風がミラーを揺らし、遠くでトラックのバック音が鳴る。
昼休みの終わりを告げるような、現実の音だけが続いていた。
雨木楓真は、しばらく動かなかった。
白石の残り香がまだ薄く漂っていた。
怒鳴り声の余韻は消えても、空気の温度だけは残っている。
「……クソオトコ、ね」
自分でも苦笑が漏れた。
確かに、そう見えるだろう。何もはっきりさせず、都合よく距離を取ったのは自分だ。
だが謝る気にはなれなかった。
白石はもう“上に行く”女だ。副社長の婚約者、社長室勤務。
勝ち組の側に立つ。なら、それで良かった。
彼女がいなくても世界は回る。
いなくなっても何も変わらず、出勤しては働いて、帰って寝て、また起きたら働いた。
窓を少し開けて、冷たい空気を吸い込む。
車内の熱が外に逃げていく。
深く息を吐くと、ようやく胸の奥に残っていたものが抜けていく気がした。
――人はだれでも老いる。それは美人でも、金持ちでも同じだ。
残るのは金と、ほんの少しの思い出くらいだろう。
そしてそれも、いつか消えてなくなる。
そう思うと、ほんの少しだけ笑えてきた。
彼女の笑い方をふと、思い出してしまったからだ。
真面目で、仕事熱心で、よく笑う女だった。あの頃は。
「まあ……綺麗な女に誘いが多いのは世のしがらみ。いや、……世の理って奴か」
誰に向けるでもない言葉を、曇ったガラスに落とした。
副社長が“顔で部署を作るような男”であることを雨木は良く知っている。
ならば白石が選ばれたのは当然だ。
「昔からしつこくアプローチ掛けてたしなぁ。……白石だけじゃないし、他でも問題起こしてたけど」
副社長――朝比奈慶翔の“女癖”は、ただの社長の息子だった頃から有名だった。
あの男の子供を妊娠したと口に出して、会社を追い出された女性社員を雨木は二人知っている。
だがそれでもそんな男は副社長になり、今では実質会社を動かす立場になった。
いまでは異動も昇進も、彼の一言で決まる。
ならばいずれ彼女も、似たような理由で別の誰かに取って代わられるのかもしれない。
けれど、それを哀れだとは思わなかった。
彼女が選んだ道だし、自分がどうこう言う筋合いもないことだ。
雨木は弁当箱の蓋を閉じ、指先で小さく机代わりのハンドルを叩いた。
気持ちはもう整理できていた。
彼女は過去だ。
昼休みに、少しだけ見た悪い夢。白昼夢。
そして、会社も、もうすぐ過去になる。
退職を告げてから、職場では明らかに距離を置かれていた。
昼の休憩室では話しかけられず、雑談にも混ざれない。
会議では必要な部分だけ名を呼ばれ、あとはいないものとして扱われる。
“裏切り者”の扱いとは、案外統率が取れている。
腹は立たなかった。
そういう環境の方が、自分はやりやすい。
ただ――人間関係ってのは面倒だな、とだけ思った。
残業代は消え、手当は削られ、人の補充はない。
限界まで使い潰して、壊れたら替える。
そんな会社に、変わってしまったらしい。
だから辞める。
それだけの話だった。
窓の外に目をやる。
昼の光がやけに白くて、街全体が冷えて見えた。
遠くでカラスが鳴く。ビル風に押されて声が途切れた。
「……俺の責任じゃねぇよな」
独り言のように呟く。
声に出すと、思っていたより軽く感じる。
会社が崩れていくのは、自分がいなくても時間の問題だ。
残る人間が大変なのは分かっている。
でも、抜ける自分だって、これからが大変なんだ。
ゼロからやり直す。
再就職だって簡単じゃないだろう。そんなことは分かっている。
それでも、体はまだ動く。
なら、今しかできないことをやるべきだと雨木は考えていた。
――ダンジョン。
ニュースで聞き飽きたその言葉。世界中に突如現れた、異常な空間。
魔物がいて、魔石が採れて、国が、世界がそれを資源として扱う。
エネルギー革命だの、新産業だのと騒がれているが、要は金だ。
「金になるなら、やる人間はいくらでもいるだろうさ。俺みたいにな。命を懸ける価値があるくらい稼げるなら、それでいい。
――1年だけ。
1年だけだ。命を落とさないように気をつけて1年、死ぬ気で稼いでやる。
その間に勉強もして、取れるだけ資格を取る。
もし冒険者が肌に合わなければ再就職すればいい。
そのときは“ダンジョン経験者”として、上手くどっかの会社に潜り込めばいい。二次三次、孫請け曾孫受けくらいになるかもしれないが、それでも経験者ならどっかに、いくらでも入れるはずだ。
最も冒険者は上手くやれば会社員より稼げるらしいから、やめられなくなるかもしれないけどな」
誰に聞かせるでもなく、笑い混じりに呟いた。
冗談みたいな話だけど、世の中そういう話はいくらでもある。
やらない奴には何もない。だが手を伸ばせば、高い所にあるリンゴが手に入る……かもしれない。
スマホのアラームが鳴った。
昼休みは終わりだ。
シートを戻して深く息をつく。
「……昼寝できなかったな」
ガラス越しの冬空は、少し霞んで見えた。
仕事はまだ続く。だが、終わりも近い。
その光の中で、彼は静かに考えていた。
無くした物を何度思い返しても、それは戻らないだろう、と。
やり直すのではなく、上書きするべきだ。
――雨木楓真は、そう考える。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




