境界線の向こう
― 熊澤恵美 視点 ―
それは、本当に唐突だった。
視界の端で赤が跳ねたと思った次の瞬間、雨木楓真の鼻の奥から鮮やかな血が零れ落ちていた。
顎を伝い、作業服の胸元に染みを作ったその色は、灰色のダンジョン空間の中でやけに鮮烈だった。
研修の立ち会いはこれで何度目になるだろう。
けれど、こうして“兆候”を目の当たりにするのは初めてだった。
噂でしか知らなかったその瞬間が、今、目の前で起きている。
思考が一拍遅れて追いつく。
「……落ち着け。鼻血なら大丈夫だ。クマ、救急セットを」
低く通る声。護衛役のスキンヘッド自衛官、ヤマタだ。
鼻血“なら”という一言に、私は胸の奥を針で突かれたようなざわめきを覚えた。
促されるまま、私はポケットティッシュを取り出した。
手は自然に動いたが、胸の奥はざわついていた。
鼻血――それは、ダンジョンに“選ばれた”証拠。
私には決して訪れなかった現象。
「え、えっと……雨木さん、これ……」
差し出す私の手元を、彼はわずかに驚いたように見、それからふっと笑った。
「……別に、エロいこと考えてたわけじゃないですよ? なんか、突然出てきたんです」
場違いな軽口に、思わず呆れと笑いが半分ずつ込み上げてくる。
想像していた“黒騎士”像は、もう半分ほど崩れていた。
もっと刺々しく、狂犬のような男だと思っていたが、実際は驚くほど落ち着いている。
「ぷっ、そんなことで鼻血出る人なんていませんよ。漫画じゃないんですから」
そう返した瞬間、自分でも驚くくらい口元が緩んでいた。 張りつめた研修の空気の中で、自分が笑う日が来るとは思わなかった。
その後はヤマタとカブに説明を任せることになり、一歩下がってそれを見守る。
空間酔いの確認の後には、もうひとつの判定がある。──ダンジョンが、その人間を“気に入るかどうか”。
気に入られた者の身体は、その瞬間、わずかに“書き換え”られる。鼻血はその兆候だ。
(……気に入られた、か)
軽く言うが、それは選ばれた者だけに起こる変化だ。
初めて入った瞬間、体の構造がわずかに“書き換え”られる。
私は、その兆候を得られなかった。
初めて入った日のことを思い出す。
空間酔いはなかった。だが、それだけ。
同行していた職員が「お疲れさま」と事務的に言った瞬間、自分は“向いていない”側に分類された。
誤魔化しようのない線引き。
それから私はノービスとして生きることになった。
異動があっても、必ずダンジョンのある地域に回される。
手当は付くが、仕事内容は客寄せパンダのような現場案内ばかり。
ダンジョンを知らない同僚たちは「出会いがあっていいですね」などと笑うが、ここに立ったことのない者の無邪気な言葉だ。
岩肌の冷たさ、土の湿った匂い、薄暗がりに漂う独特の金属臭。
あの日と同じ空気の中で、“向こう側”に立った新人を見ている自分が、どうしようもなく遠く感じる。
「雨木さん。改めまして、ダンジョン免許取得試験、合格です。おめでとうございます」
口にするのは研修マニュアル通りの台詞。だが、今日はなぜか少しだけ重く感じられた。
鼻血の染みを押さえながら、彼は一瞬だけ驚き、それから小さく息を吐く。
その目の奥には、喜びとも達成感とも違う光が宿っていた。
(研修で、こんなに感情をかき乱されるなんて……思ってもいなかったな)
噂と現実、その差を痛感する。
同じ空間に立っているのに、世界の重さが違って見えた。
指先が届く距離に、けれど決して越えられない壁があった。
それでも――その境界の向こう側に立つ彼を、なぜかもう少し見ていたいと思ってしまった。
その感情の名前はまだわからない。
ただ、胸の奥で静かに芽吹いたそれが――
いつか、自分をも越えさせるものになる気がした。




