ポータルの前で
― 熊澤恵美 視点 ―
午前十時ちょうど。駐屯地にサイレンが鳴り響いた。
いつもならただの時報。なのに、今日は胸の奥まで響く。
時刻を告げる合図であり、新人研修の開始を告げる合図でもある。
ここは東京都から川を渡った先の街にあるゴブリンダンジョン。
稼ぎは低いくせに危険度はそこそこ高く、ダンジョンに潜る冒険者には不人気な場所だ。
視線の先では、銀色の靄が楕円形に揺らめき、地面に対して垂直に“立って”いる。
異空間接続ゲート――通称ポータル。何度見ても、背筋に冷たいものが走る。
その前で待機している今日の研修生、雨木楓真はベンチに腰掛け、静かに呼吸を整えていた。
「珍しい物を持っているな? それは使えるのか?」
護衛役のスキンヘッド自衛官、ヤマタが声を掛ける。
雨木は顔を上げ、軽くトンファーを回して答えた。
「カンフー映画みたいに、って言われたら無理ですね。使えません。
でも振り回すだけなら出来ます。なので使えるって言えば使えますよ。
昔、空手をやってた時にちょっと教わったくらいですけどね」
その動きは軽い冗談めいていたが、手首の軌跡は淀みなく、形だけの所作ではなかった。
ほんの数秒のやり取りなのに、周囲の空気がわずかに変わる。
(もっと狂犬みたいな、荒々しい人が来ると思ってたんだけど……)
今朝、配属以来可愛がっている後輩が半泣きで「代わってください」と頼み込んできた。
その子は雨木を知っているらしく、“黒騎士”というあだ名や、大会で審判を殴った事件を興奮気味に語った。
正直、聞けば聞くほど関わりたくない相手だったが、泣きついてきた可愛い後輩を突き放す気にはなれなかった。
研修地へ来た元黒騎士、雨木楓真を見たヤマタやカブたち、有資格者の言葉を思い出す。
「……今日の研修生、かなり強いな。何かやってる奴か?」
「経歴だと昔ちょっと空手をやってただけ、みたいだぞ。だが、こいつはダンジョンに気に入られそうだ」
「同感だ。背も高いし、ヒョロちくもねぇ。ちゃんと鍛えてる奴だ」
「今日もつまんねえ研修かと思ってたが、こりゃ~期待できるな」
彼らにとっては、ただの雑談の延長だったのかもしれない。
だが資料を見ずとも、噂を知らずとも、一目で違うと断じた。
その確信の響きが、妙に耳に残った。
「ダンジョンに好かれる」
私には分からないその感覚を、彼らは当たり前のように感じている。
その差を突きつけられたようで、胸の奥がひやりとした。
――私はノービスだ。
ダンジョンに入ったが選ばれなかった者の呼び名で、選ばれた者にとっては蔑称に近い。
空間酔いはなかったが、ダンジョンから力を与えられなかった。
そんなノービスは、異動があってもダンジョンのある地域にしか回されない。手当は付くが、仕事内容はほとんど“客寄せパンダ”だ。
(愛想も良くて、上に気に入られてる娘には、こんな危ない仕事は回らない……)
(そんな子に限って“外の男性と出会いがあっていいですね”なんて呑気に笑って言ってくる。ゴブリンダンジョンの現実なんて知りもしないくせに)
ゴブリン系の魔物しか出ないくせに、妙に小狡く危険で、しかも稼げない。
だから冒険者も寄り付かない。
そんな場所に私は今日も立っている。
「じゃ、先に入って確認してくる」
ヤマタともう一人、同じく護衛の自衛官カブこと鏑木がポータルへ歩み出る。
中に入る前に必ず安全確認を行うのは決まりだ。
二人の背中が銀の靄に吸い込まれるように消えた。
私はその間も、雨木を横目で観察していた。
普通の新人なら落ち着きのなさが滲み出るものだが、彼は動きが少なく、呼吸が一定だ。視線も無駄に泳がない。
(……やっぱり、普通じゃない)
やがてヤマタが戻ってきた。
「クマ、安全確保。問題なし」
短く告げられ、私は頷く。
ファイルを閉じ、雨木に向き直った。
「雨木さん、準備はよろしいですか? それではポータルへお進みください」
男は静かに立ち上がり、一切のためらいなく歩き出す。
銀色の靄が揺らめくその向こうへ。
その背を見送りながら、私は胸の奥に小さなざわめきを覚えていた。
それは警戒なのか、興味なのか。
その背を見送りながら、私は胸の奥に小さなざわめきを覚えていた。
それは警戒なのか、興味なのか。
それでも、次にすることは決まっている。今日の研修を滞りなく進めなければならない。
軽く頭を振り、私はポータルの中へと足を踏み入れた。




