噂の向こうに
― 熊澤恵美 視点 ―
私の勤める警察署は、東京都から多摩川を渡った先、最初の街並みにある。
この街にはダンジョンの入口があり、署内にはその対応部署が設けられている。
そのせいか、朝の庁舎は他の署よりも少しばかり騒がしい。
詰所には研修担当の警察官たちが顔をそろえ、今日の受講者リストを手に打ち合わせをしていた。
私は書類を整理しながら、周囲の声を半ば聞き流していた。
そんなときだった。視界の端で、いつも明るい後輩が半泣き顔でこちらへ歩み寄ってきた。
「熊澤さん……お願いです、今日の担当、代わってください!」
声をひそめてはいるが、切羽詰まった様子は隠せない。
思わず手を止め、きりりと目を細めた。
「……どうしたの?」
「今日の受講者……私、知ってるんです」
眉がわずかに動く。聞き返そうとした瞬間、すぐそばの同僚たちが「何の話だ?」と興味を示し、自然と視線が集まった。
「私、小学校まで空手やってたんです。フルコンタクト系の」
近くで書類をめくっていた年配の警察官が、経歴欄をのぞき込み、口を挟む。
「そういや今日の研修生……雨木楓真。経歴に空手ってあるな」
「空手ぐらい珍しくもねぇだろ。柔道とか剣道の経験者なら警察にもごろごろいる」
「警察学校じゃどっちか必修だしな」
「自衛隊だって柔道有段者ばかりだしな」
私は黙って聞いていたが、若い彼女は首を振った。
「……違うんです。この人は、そういうんじゃないんです」
そう言って、震える指で履歴書を指し示す。
「同じ道場じゃないですけど、地元の大会で何度も顔を合わせてたんです。
あのとき私は十二歳で、小学生最後の大きな大会でした。
あの人は“黒騎士”って呼ばれていて……私たちよりずっと上の、大人の部に出ている人で……。
強いのに礼儀正しくて、でもどこか影がある。近寄りがたいのに、なんか目を離せない人で……。
当時は憧れてる子も多くて……私もそのひとりで、握手してもらったことがありました」
黒騎士――。耳慣れない呼び名だが、妙にしっくりくる響きだ。
武道をやってきた人間なら、そういうあだ名を背負う者の雰囲気をなんとなく察せられる。
「黒騎士って……漫画か?」
「いや、本当にそう呼ばれてたんですよ。なんか、近づきにくいけどカッコいい、みたいな」
「へぇ、意外とモテたんだな」
感心半分、揶揄半分の声が周囲から漏れる。だが彼女はそこで言葉を区切らなかった。
「でも――最後の大会で全部変わったんです」
呼吸をひとつ置き、彼女は続ける。
「私の流派の大会に、雨木さんが他流派として出てきていたんです。フルコンタクト空手って、顔面へのパンチは禁止なんですよ。危険すぎるから。
でも、その試合で相手が三回も顔を殴ってきたんです」
「あー……他流派戦だと審判がそっちの人間だから、止めてもらえないやつか」
「はい。完全なアウェーで、反則でも止めてくれない。しかも三回目で――」
彼女はごくりと唾を飲み込み、言った。
「ブチ切れて、試合相手じゃなく……試合を止めない審判をやっつけちゃったんです」
その場の空気が一瞬、ぴたりと止まる。
冗談や脚色を感じさせない声音に、誰も笑わなかった。
「……それは、やばいわね」
私が低くそう漏らすと、彼女は必死に続けた。
「だから今日、自分が研修を担当すると思うと、怖くて……」
私は再び履歴書を見下ろす。
そこにある顔写真の男は、涼しげな目元でこちらを見返していた。
紙の上の視線なのに、不思議と芯のある光が宿っているように見える。
(……これが“黒騎士”か。十年前、十二歳だった彼女が見上げた男も、もう三十二歳か)
静かに書類を閉じた。
「……分かった。代わってあげる」
短くそう告げると、彼女の表情が一気に緩み、肩から力が抜けた。
安堵の息を吐くその横顔を見やりながら、私はゆっくりと息をつく。
(よりによって、二か月ぶりの新人研修でこれか……)




