鍵と鎖と端末と
西日が斜めに射し込み、カーテン越しの光がベッドの皺を金色に縁取っていた。
昼と夜の境目。部屋の空気そのものが赤く染め上げられていく。
足元には脱ぎ捨てられた上着、脇には放り出された紙袋。
その真ん中で、雨木楓真は仰向けに寝転び、片手で額を押さえていた。
手の届く位置には旧式のスマートフォンと――五十万円のイージス端末。
ただの黒い箱のはずなのに、そこから重石のような存在感が滲み出している。
「……腹減った」
霞が関から戻ったばかりだった。
鷲倉の冷静な説明、美濃原の圧力、鷹見の真っ赤な顔が、雨木の頭の中でぐるぐると回っている。
結局、雨木は五十万の端末を一括払いで購入した。
本来なら、せっかく霞が関に出たのだ。
お洒落な店でランチに昼ビールでも楽しもうと考えていた。
無職の特権であり、勤め人たちを横目にする最高の贅沢。
だが今日は、その一杯すら霞が関に吸い取られてきた気分だった。
高級ブランドのロゴもない無地の箱なのに、中身は異様な存在感を放っている。
これが自分を縛る鎖になるのか、それとも武器となるのか――雨木にはまだ分からなかった。
「……買っちまったなぁ。スマホごときに五十万。無駄遣いするために冒険者になったわけじゃないんだけどな」
形こそスマートフォンだが、その実、性能は二段階も三段階も先を行く化け物じみた電子機器――そう説明された。
「お前なら……軍事が科学の最先端だってことくらい、分かるだろ?」
説明を終えた後の、美濃原の言葉が耳に残っている。
値段が高いことには、それだけの理由があった。
むしろこれでもダンジョン省が、限界まで値を抑えているらしい。
(スマホ型なのも、カモフラージュだろう)
特殊な形にすれば、人目を引く。
目立てば、余計な輩を呼び寄せることになる。
「これは特別です」とわざわざ宣伝する必要はない。
購入後、指紋・網膜・音声の三段階認証を設定させられた時点で、雨木は痛感していた。
これはただの端末ではない。
三つの鍵を揃えなければ、この端末は決して開かない。
「……国の本気度ってやつか。怖い怖い」
イージス端末の機能は多岐にわたる。
通常のスマホ機能に加え、セキュリティは段違いだ。
通話には盗聴防止機能、ネットワークは最高峰の防御壁で守られ、怪しいサイトにアクセスすれば自動で遮断される。
さらに、電波が届かない場所では衛星回線に切り替わるという。
『むしろ、特殊空間管理省に情報が集まるので、どんどん潜っちゃってください』
そう言ったのは、鷲倉桃花だった。
あの場で雨木と美濃原の間に割って入った、あの若い女官僚。
二十三歳。若さゆえの無鉄砲。
後で聞いた話では、美濃原は省内でも屈指の実力者だった。
外部監察官という肩書きから傍系かと思いきや、実際は違う。
公安出身で、内部以上に影響力を持つ特別職。
序列では事務次官に次ぐ審議官や局長クラスと同格で、さらに警察や公安筋とも太いパイプを持つ。
次期省長候補に数えられる存在だという。
そんな相手に食ってかかれる鷲倉の胆力は、ある意味で尊敬に値する。だが――
せっかくきれいに咲いた花だ。早死にしなければいいが、と雨木は思った。
(……まあ、俺にとってはあんまり関わりたくないタイプだけどな。顔は良いけど、かなりきつそうだし。
とはいえ、ダンジョン省の職員。そうもいかないだろうけど)
そう思いながら、雨木は目の前のイージス端末を作動させた。
この端末には“冒険者専用”のアプリがいくつも搭載されている。
だからこそ、資格を取った者は購入することになる。
まず、魔石の換金代金は端末の専用口座に振り込まれる。
三大メガバンクを通さず、国のシステム内で完結する仕組みだ。
つまり、冒険者の稼ぐ金は、完全に国の懐で回されているということだ。
外の銀行に連携はできるが、その履歴もすべて把握されるだろう。
霞が関で振込口座を登録させられた時点で、雨木のメインバンクも掌の上だ。
(逆らったらどうなるか――想像したくもない。怖い怖い)
イージス端末内の“冒険者専用掲示板アプリ”を今後は使うように――そう説明され、
表に出ている一般向けの掲示板には書き込みをしないようにと、念を押された。
ダンジョンに関する情報は、資格を持たない者には一切漏らさない。
それが、正資格者に課せられる新しい義務だった。
その誓約書にも、署名と指紋を添えてサインさせられている。
表の掲示板が薄っぺらいのも当然だ。
つまり、表の情報網は監視され、その裏に“本物”が隠されている。
極めつけは“オークション”機能。
入札も落札も、端末の残高でのみ取引可能。
受け渡しには必ず省の職員が立ち会う。徹底していると言っていい。
(……鷹見が相手なら、ちょろまかせそうな気もするが……いや、やったら詰むな。彼女と逃避行でもするか? どう考えても地獄だ)
くだらない想像を振り払い、深く息を吐いた。
規則を細部まで気にしていたら、胃がもたないだろう。結局、人は規則の中で生きるしかない。
それが出来ない者が弾かれ、ふるい落とされる。
「……なると決めて、ちゃんと受かったんだ。ならその規則の中で、賢く立ち回る方法を探るしかねぇな。
さて、それよりも、だ。いい加減腹マジで減ってきてやべぇ」
空はすっかり夕暮れに染まり、西日が部屋を赤く満たしている。
端末を机に置き、背を伸ばすと、関節が小さく鳴った。
冷蔵庫には鶏胸肉のストックがある。
最近は節約も兼ねて自炊を心がけ、油を控え、タンパク質と野菜を多めにしている。
前職時代に外食とコンビニ飯で緩んだ体を、少しずつ作り直しているところだ。
だが今日は、鍋もまな板も触る気にならなかった。
霞が関でのやり取りが、妙に体力を削いでいた。
「……たまには外で食うか」
ジャケットを羽織り、イージス端末と財布をポケットに放り込む。
ドアを開けると、ひんやりとした風が頬を撫でた。
街路の上には、まだ西日の残光が赤い筋を引いている。
腹の虫が鳴く音を聞きながら、雨木楓真は夜の街へと歩き出した。
赤い光を背に浴びながら。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




