腹を据える時
呼吸が荒い。
胸の奥で肺が火を噴いているようだった。
だがそれ以上に、動きが鈍っていることに気づく。
(……くっそ。足が、重い。自分の足じゃねぇみたいだ)
筋肉でも体力でもない。
理由はもっと内側にあった。
雨木はわかっていた。腹の据わっていない、甘い心が全身を硬くしていると。
(スポーツジムで身体は鍛え直したのにな)
十年ぶりに空手の稽古に似た動きを取り入れ、筋トレも走り込みもした。
若い頃ほどの切れと勢いは無くとも、動ける体には戻してきたはずだった。
それなのに、いざ魔物を前にすると足が竦む。
自分は死なない、まだ余裕があると――どこかで高を括っていた。
脳裏に、会社を辞めると決めた後のことが蘇る。
出した退職届は何度も握りつぶされた。
引き延ばされ、紛失され、残業代も手当も消えた。
(あの時もそうだ。別に退職代行でも弁護士でも、やれる手立てはいくらでもあった。でもそこまではって思ってた。腹を括ってたつもりで、どこかに甘さがあったんだ)
結局、現実を動かしたのは、自分じゃなかった。
助けてくれたのは、ダンジョン省の職員だった。
それでも、最後まで会社に屈しなかったのは――自分の意思だ。
その経験が、今の自分をここに立たせている。
(なのに、命を懸ける場面を甘く見てやがった)
筋力も持久力も戻ったと思っていた。
だが、訛っていたのは身体ではなく心だった。
目の前のゴブリンたちを睨みつけながら、雨木は息を吐く。
「……腹、据えろ」
さっきまでどこかで「大丈夫だろう」と甘く考えていたことに気づいた。
だが奴らは、殺しに来た。
なら、こちらも覚悟がいる。
(殺すだけじゃない。殺される覚悟だ。そこを甘く見てた)
覚悟を決める。
それはただ「やる」と口で言うだけではない。
相手を、必ず殺すという強い意思を持つことだ。
「殺しに来たなら、殺される覚悟もしてもらうぞ。お前らにもなっ!」
呼吸を整えると、視界が広がった。
前に一匹、後ろに三匹。
後ろの二匹は、すでに負傷している。
追い足は遅い。まだ余裕はある。
(魔物相手に、空手の型や防御は無意味だな。ならここは……)
狙いは決まった。
前方の無傷の一匹を速攻で潰し、そのまま突破して壁を背にする。
そうすれば、四方から襲われることはない。
踏み込む。石床が踵を返すように鳴った。
全身を前傾させ、右手のバールを突き出す。
金属が肉を抉り、骨に弾かれる衝撃が腕先に伝わる。
ゴブリンが呻き声を上げ、崩れ落ちた。
雨木は空いた道を駆け抜け、壁際まで一気に進む。
壁を背にして息を整えると、前方には手負い二匹ともう一匹。
「よし、来い……確実に、殺してやる」
右手のバールを短く持ち、左手のトンファーを前に構える。
足運びは機械的に、淡々と。
左手で捌き、右手で突く。
狙いを絞り、一匹、また一匹へと叩き込む。
崩れたゴブリンの頭に、バールを振り下ろした。
金属音。鈍い打撃音。短い断末魔。
戦いの最中、余計な思考は消えていた。
ただ敵の動きと、自分の体の軌道だけを追う。
その繰り返しの果てに、最後の一匹が崩れ落ちる。
雨木は、静かに息を吐いた。
肺の奥で熱い空気が揺れ、遅れて全身の震えが出てくる。
(……ふぅ。これが、腹を据えるってことか)
ようやく冒険者として、スタートラインに立てた気がした。
まだ先は長い。それでも、いま確かに“始まり”を感じていた。
その瞬間だった。
床に崩れた最初のゴブリンの死骸が、淡く光を帯びた。
まるで見えない火花が弾けるように輪郭が震え、淡い粒子が立ち上る。
それはゆっくりと空気に溶け込み――次の瞬間、跡形もなく消えた。
「……は?」
目の前から、肉も皮も、牙も爪も、痕跡すら残らず消えた。
あるのは、ビー玉ほどの大きさの鈍く光る石だけ。
床に転がったそれは、ガラスのように透き通った淡青色。
光を受けて、小さく脈打つように輝いている。
「これが……魔石か」
手に取ると、ひんやりとした感触が掌を刺した。
重みはほとんどない。けれど、確かに何かが詰まっている気がした。
これだけはカード化できない――そう聞かされていた。
だから出入口で必ず確認され、買い取られる。
つまり、これを失くしたら命懸けの戦いはすべて無駄になる。
雨木は思わず、それを強く握りしめた。
ふと、さっきまでの戦いが頭をよぎる。
あのゴブリンの息遣い、牙の白さ、爪の鋭さ。
それが今、煙のように消えた。
「……マジか」
声が低く漏れた。
死ねば骨すら残らない。
肉も血も衣服も、痕跡すら残らない。
(……これ、人間も同じ、だよな)
その想像に、背筋が冷たくなる。
「冒険者は葬式もあげられねぇって……これのことか」
ダンジョンで行方不明になった冒険者は、死因を特定できない。
何も残らないからだ。
それは都市伝説でも何でもなく、いま目の前で起きた現実だった。
戦場跡を見渡す。
消えたゴブリンの位置に、ぽつりぽつりと魔石が転がっている。
四つ――戦った数と一致していた。
雨木はしゃがみ込み、ひとつずつ拾い上げる。
手のひらの中で、ビー玉のような音が鳴った。
「これを五つ持ち帰れば……正式登録、か」
戦う前はただの課題だった。
だが今は違う。
この石が、生きて帰った証だと感じていた。
魔石をポケットにしまい、深く息を吐いた。
全身の力が抜けそうになるのを堪え、壁に背を預ける。
冷たい石壁が、火照った体温をじわりと奪っていく。
「……あと1つ。次は、こっちから先制してやる」
そう思いながらも、今だけは、ほんの一瞬だけ戦いの余韻に身を委ねた。
もう後戻りはできない。
雨木は、生きるためにこの道を歩く。
どんな化け物が待っていようと、必ず生きて帰る。
そして――獲りに行く。
日常の檻からは決して得られぬ、命懸けの果実を。
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。




