昼の沈黙、エンジンの余熱
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを利用して調整しています。
前年・十二月。
昼休憩、雨木楓真は会社裏手の社員駐車場に停めた自分の車に戻り、エンジンをかけた。
吹き出し口から温風が流れ始める。外気の冷たさを振り払うように指先を温めつつ、弁当の包みを広げる。
車内に籠もった暖かさは、冬の昼休みのささやかな避難所だった。
職場で同僚の視線に晒されているより、ここでひとり過ごす方が気が楽だった。
職場での空気が一変したのは、上司に退職の意思を伝えてからだ。
業務は減らず、会話は減り、視線と雑務が増えた。
誰も口にしないが、裏切り者を見る目というのは妙に足並みが揃うものらしい。
飯を三口ほど食べたころ、助手席のドアが音もなく開く。
「……おい」
反射的に体を起こすと、細いシルエットがひとつ、乗り込んできた。
「昼休み、ここにいるって聞いたから。少しだけ……いい?」
白石佳乃。
元同僚で、元後輩。そしてかつて“曖昧だった関係”の女。
今は副社長付き、社長室勤務。
言葉より先に、香水の残り香が車内に流れ込んできた。
小さな空間が一瞬で会社の空気に戻る。楓真は面倒そうにため息をついた。
「こんなとこまで来て、何の用だよ」
「退職するって聞いた、だから ……話くらいはしておきたくて」
「止めにきたなら、無駄だぞ。もう決めたことだから」
「……そうですか」
口調は静かなままだったが、吐息が混ざっていた。
楓真は倒していた座席を戻しつつ、無感情に答えた。
「引き継ぎはちゃんとやる。誰にも迷惑かけない。むしろ、俺がいなくなった方が、みんな清々するんじゃないか?」
「私に迷惑かけてますけど」
ピシャリと言い切るその声に、昔の面影が残っていた。
強気だが、どこか寂しげな、仕事に真っすぐな後輩。
楓真は視線を正面に戻し、窓の外を眺めた。
冬の陽光が駐車場のアスファルトを照らし、車の影が伸びている。現実だけが淡々とそこにあった。
「俺が抜けることで誰かが困るのは分かってる。でも、俺が潰れたら誰が責任取ってくれる?」
「雨木さんがいなくなったら……副社長が、もっと現場に口出すようになりますよ」
「知るかよ」
語気が少しだけ強まった。白石の肩が小さくすくむ。
空調の音が、間の沈黙を埋めた。
魔石からエネルギーを取り出せる――その技術が確立されたのは、三年前のことだった。
世界のエネルギー構造が一夜で塗り替えられ、日本の産業界もその波に飲み込まれた。雨木の勤めていた会社も例外ではない。
もともと電力関連の企業ではあったが、当時の社長は魔石エネルギーの可能性にいち早く目をつけ、自ら現場を率いて新規事業を立ち上げた。
雨木と白石も、その中心にいた。連日深夜まで働き、手探りの中で結果を出そうとしていた。
だが一年後、社長は過労で倒れた。
現場の空気は一変する。
指揮を取る者を失い、現場はその日を境に動きを止めた。
やがて、後を継いだのは新副社長――朝比奈慶翔。
社長の息子で、雨木より二歳年上の同期入社だった。
現場を知らず、他人に厳しく、自分に甘い。
口数は多いが、言葉は軽く、方針は日替わり。
そのたびに現場は右往左往し、疲弊していった。
資格手当は削られ、残業代は消え、人員補充もない。
報告書と会議だけが増えていき、誰も仕事の意味を口にしなくなった。
雨木は、それを淡々と見ていた。
怒るでも、嘆くでもなく。
ただ、この会社ではもう先がないと判断し、静かに退職の準備を始めた。
結果として、彼の離職は一部の人間に“裏切り”と受け取られたのだろう。
特に、かつて同じ現場で働いていた白石にとっては。
「そっか、あいつが“もっと口出す”ようになるのか……。そりゃ大変だな、残る人間は」
「他人事みたいに言わないでください。残された人たちがどれだけ負担を背負うか、分かってるんですか?」
彼は就任後すぐに“社長室”を作り、白石を引き抜いた。
現場は人手が減っても仕事は減らず、削られたのは残業代と人間の神経だけだ。
「……結婚するんだってな」
唐突な一言に、白石のまつげがかすかに揺れた。
「誰に聞いたんですか?」
「ご本人。直接じゃないけどな。わざと聞こえるように言ってた」
白石は小さく息を吐いた。
「まだ“婚約の話が出てる”段階です」
「そうか。まあ、どっちにしろおめでとうだ」
白石は何も言わなかった。
目の奥がわずかに動く。だがそれが何の感情なのか、楓真には分からなかった。
もう、自分には関係のないことだ。
「もういいか。婚約するんなら、他の男の車になんて乗らない方がいい」
「……心配ですか?」
「どっちでもいい。副社長は嫉妬深いタイプだろ。自分は気が多いくせにな」
社内では“社長室”を“大奥”と呼ぶ者もいる。
顔の良い女性ばかりが集められたその部署で、白石が働いている。
副社長が仕事より何を優先しているか、想像に難くない。
「自分のものじゃなくなったら、早く帰れってことですか。冷たいですね」
「そう取るなら、それでいい」
それ以上言葉を継がず、弁当をひと口食べた。
雨木にはもう、未練はない。この会社にも、白石にも。
白石はしばらく何かを言いかけて、結局ドアに手をかけた。
外の光が差し込む。彼女の横顔が、冬の陽射しに淡く照らされた。
「……男って、意地張って馬鹿みたい! 死ね! 二度と話しかけないで、クソオトコ!」
バン、と音が鳴った。
助手席のドアが乱暴に閉まり、冷たい風が入り込んで、すぐに消えた。
ヒールの音が遠ざかっていく。怒っているのは分かる。あの肩の揺れ方は昔から変わらない。
雨木は窓の外を見た。
駐車場の奥で白石の背中が小さくなっていく。
しばらくしてから、ひとつ息を吐いた。
「……クソオトコ、ね」
呟きの調子は穏やかだった。
怒りも後悔もなく、ただ事実を確認するように。
曖昧なまま終わらせたのは自分だ。それでいい。
彼女は“上に行く”女で、自分は“外に出る”男。
ただ、それだけのことだった。
再び弁当に箸を伸ばす。味は落ちても腹は減る。
エンジンの音だけが、昼の空気を震わせていた。




