面影を越えて⑪
陶芸体験をした翌朝、シャノンたちは帰り仕度をしていた。
既にジョナスやハミルトンには、挨拶をしている。
そのときに昨日コップ作りを手伝ってくれたことの礼を改めて言ったのだが、ジョナスは「……たいしたことはしていない」と素っ気なかった。ただ、彼の隣にいたハミルトンは嬉しそうににこにこしていたが。
だいたいの荷物が積み終わり、ラウハたちが最終点検をしている。
(あら? エルドレッド様は?)
てっきり本邸にいるかと思いきや、挨拶以降は姿を見せていないという。
ではもう荷物が空っぽになった別邸のどこかか……と彼を探していたシャノンは、ここ数日自分たちが使っていた部屋に上がった。
エルドレッドは、寝室にいた。
洗濯のためにシーツや上掛けが全て取っ払われたベッドの上に腰掛けていた彼はシャノンが来たことに気づき、はっとした様子で顔を上げた。
「……ああ、すまない。少し、ぼうっとしていた」
「お疲れですか?」
「いや、大丈夫だ。……少し、昔のことを思い出していて」
エルドレッドはそう言って、壁――シャノンの部屋の寝室に続くドアの方に視線をやった。
既にそのドアは、反対側から鍵をかけている。なんとなく気になったのでシャノンもエルドレッドの隣に腰を下ろし、閉ざされたドアを見る。
「……子どもの頃から、この隣が女主人用の部屋であると知っていた。つまり、いずれ私の妻になる人が使う部屋だ、と」
どこか懐かしむような口調で言うので、シャノンも素直にうなずいた。
「ずっと、ここは閉ざされていたのですね」
「ああ。……でもこの部屋で泊まるたびに、考えていたんだ。いつか、私のたった一人の愛する人があのドアの鍵を開けて、私のところに来てくれるのだろうか、と」
「……」
「父上と母上は、恋愛結婚だったからな。口には出さないが、私も両親に憧れていた。私もいつか恋をして……その人があのドアを通ってやってきてくれるのだろうか、と密かに楽しみにしていた」
シャノンは、そっとエルドレッドの顔を見上げた。
少し艶っぽい話題だとは思うものの、不思議と恥ずかしいとかいう感情は湧いてこない。
むしろ、ドアを見つめるエルドレッドの眼差しに胸が温かくなり、彼の方に手を伸ばして膝の上に載っていた手に自分のそれを重ねた。
「次にここに来るときには」
シャノンはエルドレッドの大きな手に触れ、ささやいた。
「鍵、ずっと開けておきますよ」
「シャノン……」
シャノンの名前を呼ぶエルドレッドの声が、甘い。
シャノンが触れていたエルドレッドの手がひっくり返り、指と指を絡めるようにぎゅっと握られる。そして空いている方の手がシャノンの頬に伸びて顔を上向かせ、軽いキスが唇に落とされる。
触れては、離れる。
決して深いものにはならず、何度も触れるだけのキスを繰り返す。
だがそれだけで、シャノンの胸は満たされており――ラウハたちが呼びに来るまで、婚約者からの優しいキスに溶かされていたのだった。
息子とその婚約者を乗せた馬車が、中庭を走っていく。
本邸三階の自室からその様子を見ていたジョナスは、ふうっと息を吐き出した。
妻が死んだのは、自分のせいだと思っていた。
自分が妻を不幸な女性にしてしまったのだと――二十年以上思っていた。
『私は自分の意思で、ランバート辺境伯領に来ました。ここで頑張りたい、って思って。……エルドレッド様の婚約者になったのは予想外のことですが、ここに来たいと思ったのは私の意思です』
『そして同時に……エルドレッド様にも、後悔してほしくありません。私を選んだことを……ずっと』
迷いない眼差しで言うシャノンの姿が、思い出される。
そう、きっと妻も同じだった。
クラリッサも、彼女の意思で北の大地に来たのだ。
……シャノンがエルドレッドの未来の妻としてやってこなかったら、これから先もずっと自責の念に身を蝕まれていたかもしれない。
ジョナスは、部屋を出た。そこでちょうど、若いメイドが廊下に置かれた花瓶から古い花を抜いているところを目にする。
「……そこの、君」
「はい。いかがなさいましたか、旦那様?」
「……花を替えるのか?」
ジョナスが尋ねると、人のよさそうな顔立ちのメイドは笑顔でうなずいた。
「はい! シャノン様が持ってきてくださったお花を、小分けにしようと思いまして」
そういえばシャノンは手土産として、花束を持ってきてくれたのだった。いつも「とりあえず」とばかりに陶器を寄越してくる息子とは、大違いである。
そこでふと思いつくことがあり、ジョナスは口を開いた。
「……ちょうどいい花瓶がある。それを使いなさい」
「えっ? ……はい、かしこまりました」
メイドは少し不思議そうな顔をしつつもうなずき、「お花を持ってきますね」と言って去って行った。
ジョナスはメイドの背中を見送ってから部屋に戻り、木製キャビネットのドアを開いた。
――このキャビネットは、メイドはおろか執事のハミルトンにも触れさせない。そしてこの扉を開いたのも、ずいぶん久しぶりだった。
女性物の小物やアクセサリーなどが並んだその奥に、少し不格好な花瓶があった。
『わたくしにだってできます!』
耳の奥に、愛しい妻の声が蘇る。
もう二十年以上も前のことなのに、くっきりはっきりと思い出された。
『こうでしょう? ふふ、いい感じに……わ、きゃあっ! ジョナス様、助けて、助けてくださいましー!』
ろくろを前に自慢げな顔をしていた妻だが、粘土で真っ白になった指先がうっかり成形途中の花瓶に触れてしまったようで、ぐにゃんぐにゃんと形を崩しながら回転し始めた。
妻を膝の間に座らせていたジョナスが慌てて形をもとに戻してやろうとしたものの、当時の自分はまだそこまで陶芸が得意ではなくて四苦八苦した。
やっと花瓶が完成したときには二人とも手だけでなく顔にまで粘土が飛んでおり、互いの顔を見て大笑いした。
『とっても素敵に仕上がったわ! わたくしの記念すべき、第一作です!』
焼き上がり色をつけた花瓶を嬉しそうに両手で持つ妻は、本当にかわいらしかった。
せっかくの妻の作品第一号なのだから大切に保管したかったのに、『ちゃんと使ってくださいませ!』と怒られてしまった。
『わたくし、もっと上手になるのですから! せっかく作ったものも使わないと、もったいないでしょう!』
貴族の令嬢らしからぬことを言うものだからジョナスは苦笑し、『では、二作目ができるまでは手元に置いておこう』と言った。
……妻が二作目を作ることは、なかった。
少し不格好な花瓶は妻の第一作でかつ、遺作になってしまった。
ジョナスは、キャビネットから出した花瓶をしげしげと眺めた。
……思えばこの二十年、こうして妻の遺作を眺めることさえなかった。見ることが、怖かったのかもしれない。
だがジョナスはふっと笑うと、それを手に廊下に出た。ちょうどメイドが戻ってきたので花瓶を渡し、水を注いで花を飾らせる。
まだ若いメイドは花瓶を見ても何も思わなかったようで、お辞儀をして去っていった。
「……おや、旦那様」
しばらくその場で花瓶と花を眺めていると、背後からハミルトンの声がかかった。
「おやおや、その花瓶は……確か」
ハミルトンは、この花瓶のことも知っている。妻が工房で土をこねている間、ハミルトンがそばで様子を見ていたのだから。
何か言おうとして口を閉ざした老執事を振り返り見て、ジョナスは微笑んだ。
「……花瓶は、使わなければ花瓶とは言えないからな」
そう言って、彼は目を細めた。
『ジョナス様!』
かすかに揺れる花の向こうに、愛らしく微笑む妻の幻が見えた気がした。




