面影を越えて⑨
ラウハたちと昼食を食べ、その後も町の散策をしてから戻ったときには、既に夕方になろうとしていた。
「たくさん歩いたー!」
「たまには女だけでの外出、いいわね!」
「ええ。皆、ありがとうございます」
シャノンが礼を言うと、ラウハたちは「こっちこそ楽しかったよ!」と笑顔で言ってくれた。
これから騎士団の打ち合わせに行くという三人を見送り、シャノンは別邸の方に向かおうとして……ふと、途中で通りがかった黒い門の前で足を止めた。
この先には、エルドレッドの生母であるクラリッサが眠る墓があるのだが。
(……鍵、開いているわ)
門に引っかかった錠前が、外れている。
この門の鍵を持ち出せるのは、エルドレッドとジョナスだけだという。エルドレッドが帰ってきたという話は聞かないから……おそらく奥にいるのはジョナスの方だ。
(邪魔をするわけにはいかないわ……あっ)
すぐにきびすを返そうとしたシャノンだが、それよりも早く門の奥の花々が揺れ、木の陰から背の高い男性が現れた。
その人は予想どおり、エルドレッドではなくてジョナスだった……のだが。
(やけに、ラフな格好をされているわね……)
先日挨拶したときは礼服姿だった彼が、今はシャツにだぼだぼのズボン、麦わら帽子というまるで庭師のような装いをしている。消去法なのでジョナスと分かったが、この格好だけだと誰か分からなかったかもしれない。
シャノンが門の外に立っているとは思っていなったようで、ジョナスは少し驚いたように目を丸くした。そして、貴族とはほど遠い格好の自分の姿を見下ろす。
「……見苦しいところを見せてすまない、シャノン嬢」
「いえ! 私こそ、お邪魔しました!」
「待ちなさい。……急ぎの用事がないのなら、少し話さないか」
すぐに立ち去ろうとしたシャノンだが、なんとジョナスの方が呼び止めてきた。
シャノンが目を丸くすると、ジョナスは軍手の嵌まった指先をいじりながら視線をそらした。
「……用事があるなら、構わない。行きなさい」
「いえ、大丈夫です。……ご一緒させてください」
「……ありがとう」
ジョナスは目を伏せ、「来なさい」とシャノンを門の中に招き入れた。
昨日エルドレッドと一緒に墓参りをしたのは午前中だったので、夕日を浴びる墓所はまた違った雰囲気に満ちているように思われた。
「妻の墓の手入れをしていた」
シャノンが問う前にジョナスは言い、昨日よりさらにきれいになったと思われる墓石にそっと触れた。
「本来こういうのは、下々の者の仕事だ。だが……私はこの作業を、汚れ仕事とは思わない。今となっては私が妻にできる、たった一つの愛情表現なのでな」
「……」
「シャノン嬢。エルドレッドは……その、ちゃんとできているか?」
振り返ったジョナスの言葉のきれは、あまりよくない。
実の息子とはぽんぽんと言葉を交わしていた彼だが、本来はあまり口が達者な方ではないのかもしれない。
「ちゃんとできているか」というあまりも漠然とした問いだが、シャノンは笑顔でうなずいた。
「はい。私にはもったいないくらいの、素敵な人です」
「息子の能力の高さは、私もよく分かっている。あいつは、自慢の息子だ――が、あなた関連だと少々おかしくなるように思われる。無体などは、働いていないな?」
そう尋ねるジョナスは、少しはらはらしているように思われた。
エルドレッドのことを誇りに思いつつも――どうやら彼は以前父親に、報告書らしからぬ物体を送りつけたそうだし、恋で暴走しているのではないかと心配しているようだ。
そんな姿は威厳のある貴族ではなくてごく普通の父親のようで、シャノンの胸が温かくなった。なんだか、エルドレッドがあんなに素敵な人に育った理由が、よく分かる気がした。
「もちろんでございます。むしろ、辺境伯領に来たばかりで至らぬところの多い私を励まし支えてくれます。私にはもったいないくらいの方です」
「おそらくあなた以外の女性ではあの息子を制御できないだろうから、もったいないなんて言わないでほしい。むしろ……真面目すぎて心配になるくらいだったエルドレッドにあんな面があるのだと、この年になって初めて気づけた」
やれやれと言わんばかりの様子だが、その表情は優しい。
――結婚生活二年足らずで妻を亡くし、それから二十年以上経った今も妻に深い愛情を捧げている、ジョナス。
だが彼は妻を亡くしたからといって自暴自棄になることもなく、立派に息子を育てて領主としての務めを果たした。
エルドレッドが爵位を継いだ年齢は若かったようだが、そんな彼が辺境伯家当主としてやっていけているのはジョナスの教育があってこそだろう。
ジョナスはふと視線をずらし、妻の墓石を見つめた。そのグレーの目に、さっと翳が生じる。
「……墓掃除をするのは妻への愛のためだが、答えのない問いを投げかけるためでもある。おまえは本当に、ここに来て幸せだったのか、と」
「……」
「あなたも知っているだろうが、私と妻の結婚は妻の実家――ブレイディ家から猛反対された。それを押し切り、決して体の強くない妻を北の大地に連れて行った。子を産めば体力が落ちると分かっていても跡継ぎを生ませ、その結果肺を患って極寒の中で死んだ。妻が生きている間に……私は、その問いを投げかけることができなかった」
怖かったのだろう、とジョナスはつぶやく。
「後悔している、と聞くのが怖かった。そう答えられる可能性がある以上、聞けなかった。……もう永遠に、聞けずじまいになったがな」
「……」
「だから、シャノン嬢。あなたにはエルドレッドと、しっかり話をしてほしい」
シャノンを振り返り見たジョナスが、はっきりとした声で言う。
「あなたはとても元気で健康な女性だと、エルドレッドがあの小説――のような報告書で述べていた。だからきっと大丈夫だろうが、ランバート辺境伯領の冬は、思いがけない事態を引き起こす。……脅しだと思われても仕方ないと分かっているが、後悔だけはしないでほしい」
そういうことか、とシャノンはジョナスが自分をここに連れてきた意味を今知った。
(ジョナス様は、私のことを案じてくださったのね)
見た目は大きく異なっているとしても、おそらく彼はシャノンに自分の妻を重ねている。
辺境伯家の青年に見初められた王都の令嬢、という共通点をもって、シャノンを通して妻を見ており――自分の心の内を語ることで、シャノンを後悔させないようにしてくれている。
「ありがとうございます、ジョナス様」
だからシャノンは、笑顔で答えた。
「私、エルドレッド様としっかり話しますし、エルドレッド様の話も聞きます。後悔、しないようにするために」
「……そうか」
「私は自分の意思で、ランバート辺境伯領に来ました。ここで頑張りたい、って思って。……エルドレッド様の婚約者になったのは予想外のことですが、ここに来たいと思ったのは私の意思です」
「……」
「そして同時に……エルドレッド様にも、後悔してほしくありません。私を選んだことを……ずっと」
シャノンには、死者の言葉を騙ることはできない。ましてやシャノンは、クラリッサ本人と会ったこともない。
だから、いくら立場が似ているとはいえ彼女の気持ちを代返するなんて、おこがましいことだ。
それでも、ジョナスに伝えたかった。
(きっとクラリッサ様も、そう思ってこの大地に足を踏み入れたのですよ)
温かい王都を離れて極寒の地に来たのも、家族より愛する人の手を取る方を選んだのも、最期まで愛する人のそばから離れたくないと思ったのも……紛れもない、クラリッサの意思なのだ、と。
シャノンの言葉を聞いたジョナスの瞳が、揺れた。彼はふっと顔を背け、「そうか」と短く言った。
ふわり、と夕暮れ時の風が吹く。
きっと明日も、よい夏日になるだろう。




