面影を越えて⑦
墓参りに行って昼食を取った後、シャノンはエルドレッドに連れられてもう一度庭に出た。
「今日はいい天気だし、今のうちにボート遊びをしよう」
そう言うエルドレッドは、上機嫌だ。
シャノンも、こんなにいい天気なのに室内にこもるのはなんだかもったいない気がしていたので、湖に遊びに行けるのは嬉しいことだった。
だが日差しが気になるので、午前中に着ていた墓参り用の暗い色のドレスから花柄のドレスに着替え、レースがたっぷりあしらわれた傘も用意した。
なお、墓参りのときには少し距離を置かねばならなかったラウハたちだが、ボート遊びには彼女らも参加することになった。湖にはいくつかボートがあり、成人女性三人くらいなら余裕で乗れそうなものもあるらしく、三人で円になってオールで漕ぐ順番を決めていた。
エルドレッドのお気に入りだという湖は、別邸の裏の小道を進んだ先にあった。
元々は獣道のようだがきちんと踏みならされており、湖のそばにはボート用の桟橋だけでなくデッキチェアなども揃い、ゆっくりくつろげるようになっていた。
「わあ……! 湖が、きらきらしている……!」
「王都近郊には、湖はあまりないものな。……もしかして、見るのは初めてか?」
「はい! 噴水や池、水路はよく見ていましたが、森の中の湖なんて絵本の中で見ただけです!」
昔、家庭教師のレイラが見せてくれた本に、こんな挿絵のあるものがあった。
シャノンが知っている噴水や池の水は青く見えるのに、その絵本に描かれていた湖は緑色っぽかった。それは森の色を映しているからなのだと、レイラが教えてくれたものだ。
夏の日差しが降り注いでおり、湖面がきらきらと輝いている。風を受けて小さな波が立つたびにまばゆく光るので、じっと見ていると目がちかちかしてしまいそうだ。王都の広場にある噴水では、こんなことはなかった。
「閣下、シャノン様! ボート、出しときますね!」
「ああ、ありがとう」
声のする方を見ると、ラウハたちがボートを担いで持ってきていた。それらを湖に浮かべ、ロープで桟橋に立てている木の棒とくくりつける。手慣れているので、彼女らもボート遊びはよくするのかもしれない。
「さあ、行こう。私たちの分は、専用のボートがあるんだ。私が子どもの頃、父上と一緒に乗せてもらったものだよ」
そう言うエルドレッドに手を引かれて、シャノンは桟橋の方に向かった。
ちょうどラウハたちが二つ目のボートをえっさほいさと担いできているが、そちらが木でできた質素な感じなのに対し、既に湖に浮かんでいるこちらは塗装もしっかりしており、船底には足を置くためのクッションもある。
それにオールも男性用だからか大きめで、こちらがシャノンたち用だとすぐ分かった。
エルドレッドは慣れた仕草でボートに移り、シャノンに手を差し出した。彼に手を引かれてボートに移ればいい……のだが。
「わあっ!?」
「おっと、大丈夫か?」
エルドレッドに手を支えられて乗り移ろうとした瞬間に船が揺れ、シャノンはびくっとして後じさってしまった。
二人乗りボートに乗るのは初めてだし、シャノンは泳げない。もし足を滑らせて、船と桟橋の隙間から落ちてしまったら……と思うと、なかなか足を踏み出せなかった。
「すみません。思ったよりも、揺れるのですね」
「……これは、いけないな」
「ご、ごめんなさい。すぐに飛び乗り――」
「シャノンを怖がらせるなんて……私は、だめな男だ!」
てっきり責められているのだと思ったシャノンだが、エルドレッドは空いている方の手で自分の額を押さえ、天を仰いだ。
そして彼は桟橋に戻ると、シャノンの脚の後ろに腕を回して……ひょいっと一息のうちに抱えてしまった。
「きゃっ!?」
「ほら、これで大丈夫だ」
シャノンが慌ててエルドレッドにしがみついているうちに彼はさっさとボートに戻り、シャノンを座席に下ろしてくれた。
そうしてぽかんとしているシャノンをよそに、「……シャノンは軽すぎるな。少し、重りを入れよう」とつぶやいて、桟橋にいたテルヒから土嚢のような物体を受け取り、シャノンの背中の後ろに置いた。
これによって、エルドレッドがシャノンの向かいに座ってもボートが彼の方に傾くことはなくなった。
「よし、これでいい」
「あ、ありがとうございます。あの、土嚢の重みで沈んだりしないですよね……?」
「するわけがない。私と父上が一緒に乗っていたときにも、沈んだことはないんだ。ボートが水平になった方が安全だから、これくらいでいい」
エルドレッドはそう言ってから、ラウハたちに手を挙げてみせた。すぐにラウハが木の棒のもとに向かい、そこにくくりつけていたロープをほどいた。
エルドレッドがオールをしっかり握り、力強く漕ぎ始める。すると少しずつボートが動き出し、勢いがつくとその動きもだんだん滑らかになっていった。
あっという間に、桟橋に立つラウハたちから距離が離れていく。彼女らが手を振っているので振り返し、三人がもう一つのボートに乗り込んだのを見届けたところで、シャノンは辺りに視線をやった。
夏の湖は、どこまでも美しい。都会の喧噪から離れた場所にあるため、聞こえてくるのはエルドレッドがオールを漕ぐ音と水が船底を打つ音、そして小鳥の鳴き声や木の葉っぱがこすれ合う音のみ。
「素敵……」
「だろう? ……少し、向きを変える。あっちからだと、湖の全景がよく見えるんだ」
そう言ってエルドレッドは器用に右側のオールだけを操ってボートを左回転させ、湖の奥に向かっていった。
さわさわと吹く風が、シャノンの髪を撫でて通り過ぎていく。
ベージュブラウンの髪は墓参りのときはまとめてハットの中に入れていたが、今は首筋にかかる髪だけをまとめ、残りは背中に垂らしている。海だと塩を含んだ風のせいで髪が傷むというが、湖なので遠慮することなく髪を遊ばせられた。
少し離れたところから聞こえてくるラウハたちのはしゃぎ声さえ、この景観を飾る花の一つになっているかのようだ。
「きれいですね」
肩にかかる髪を掻き上げたシャノンが言うと、なぜか向かいに座るエルドレッドがはっとした様子で息を呑んで、オールから手放した右手で口元を覆ってしまった。
「なんということだ……」
「エルドレッド様? もしかして――」
「これぞ、『夏のお嬢さん』というやつか……。シャノンが今日も、かわいらしい……」
――嘔吐しそうなのですか、と尋ねる前でよかった。
エルドレッドはボート酔いしたのではなくて、シャノンに見入っていたようだ。
そんなことを言われたものだから、シャノンは夏の陽気以外の理由でほおを温めてしまう。
「そ、そんな見られるようなものではありませんよ」
「見られるようなものに決まっている! ……くっ、できることなら今すぐそちらに行って間近であなたの愛らしい顔を堪能したいのに」
「申し訳ございませんが、私は無事に岸に戻りたいので……」
それを実行するとボートの上の体重が偏り間違いなく転覆するので、やめてほしい。いくら夏とはいえ、湖のど真ん中で着衣水泳をしなければならないような事態は起こすべきではない。
「分かっている。……そういえば昔、父上も母上と一緒にこの湖でボートに乗ったそうだ」
「まあ、そうなのですか?」
ラウハたちが「そろそろ交代してよぉ」「負けたのはあんたでしょー」と言い合う声をバックにシャノンが聞くと、エルドレッドは穏やかな表情でうなずいた。
「それを教えてくれたのは父ではなくて、ハミルトンだがな。……両親が結婚してすぐの夏、こうして二人でボートに乗ったそうだ。母上は侯爵令嬢だから遊覧船で川遊びをしたことはあっても、ボートに乗ったことはなかったという。だからか父上が漕ぐボートに乗っている間ずっとはしゃいでいて、何度も湖に落ちそうになっていたとか」
それは、ちょっと意外だ。
シャノンの中でのエルドレッドの亡き母はしとやかでおとなしい人というイメージだったのだが、予想以上に活発な女性だったようだ。
ジョナスはきっと、自ら湖に落ちようとする妻を見ながらはらはらしつつも……それでいてきっと、愛おしいと思っていたことだろう。
「それじゃあここは、エルドレッド様のご両親の思い出の場所であり、エルドレッド様とジョナス様の思い出の場所でもあるのですね」
「ああ。……そしてここに今日、最愛の婚約者と一緒に来たという思い出も追加された」
エルドレッドは笑顔で言い、ギッと音を立ててオールを動かした。
「……次に来るときには、妻になったあなたと一緒に乗りたい。そしていつか……子どもが生まれたときにも、一緒に乗りたい」
「エルドレッド様……」
エルドレッドの言葉に、シャノンは想像した。
今より少し年を取ったシャノンとエルドレッドが、同じ配置でボートに乗っている。だがシャノンの座る側には現在ある重しは存在しておらず、代わりに銀色の髪を持つ子どもがシャノンの隣に座っている。
そんな、十分考えられる未来予想図にシャノンが顔を赤らめているのを、エルドレッドは静かな眼差しで見ていた。
「いいかな?」
「……も、もちろんです。それにさらに年月が経ったら、成長した子どもが自分の恋人を連れて一緒に乗るのでしょうね」
「娘はどこの馬の骨か分からない男にはやらん!」
「あっ、娘で想像されたのですね」
どちらにしろ、まだ早い話ではあるが。




