春が呼ぶ再会⑧
レイラはすぐに城に連れて行かれ、まずは治療を受けた。
決して若くない身で、しかもわずかな路銀を工面して王都からランバート辺境伯領まで来たからか、彼女の体は傷だらけだし栄養状態も悪かった。疲労もあいまってか、暖かい部屋で治療を受けている間に彼女は気を失ってしまったという。
彼女には、食事と休息が必要だ。
医師からそう聞いたシャノンがエルドレッドに伝えると、彼は真面目な顔でうなずいた。
「シャノンが常々言っていた、先生だったのか。そういうことなら、大切な客としてもてなさなければならない。ゴードン。部屋やメイド、担当医師の手配を」
「かしこまりました」
すぐさま執事が執務室を出て行き、エルドレッドは沈痛な面持ちで目を伏せた。
「……ラウハが言うに、先生はあなたの姿をひと目だけでも見たいと思いここまで来たそうだな」
「……はい。今から十年ほど前に先生は……故郷にいるご両親の介護が必要になったとのことで、私の家庭教師を辞めました」
シャノンが十二歳の頃のことだ。
レイラとはそれっきりで住所も教えてくれなかったので、彼女がこの十年間どのような人生を歩んできたのか、シャノンには知りようがなかった。
(でも先生は、家族も財産もないと言っていた。ご両親はもう亡くなっていて……頼る相手もいないのね)
体の横で固めた拳が、震える。
世の中は、非情だ。
何も苦労せずに一生食うに困らないだけの金を得られる人もいれば、先生のように生活に困窮する人もいる。
そしてきっと、シャノンが思っている以上に貧しい人は多い。
「……私、先生のおかげで大人になれたのです」
シャノンは、絞り出すような声で言う。
子ども用の絵本を使ってシャノンに文字を教え、名前の書き方を教えてくれた。暗算の仕方を教えてくれた。シャノンが買い物に興味を持つとまずはおもちゃのコインで買い物ごっこをして、そして王都の店で実際に買い物をする経験をさせてくれた。
「私がここに来られたのも、エルドレッド様に出会えたのも……全部、先生のおかげなんです」
「あなたの言うとおりだ。その女性がシャノンと出会っていなければ、私は最愛の天使と巡り会うことはできなかった」
エルドレッドはうなずき、震えるシャノンの拳をそっと包み込むように握ってくれた。
「その女性は自分を見捨てるようにと言ったそうだが……そうするわけにはいかない。事情を聞いた上で彼女の気持ちを汲みつつ、うちで保護できるようにしよう」
「エルドレッド様……」
「シャノンだって、先生を見捨てたくないと思ってここに連れてきたのだろう?」
エルドレッドに優しく問われたのでシャノンはうなずきつつも、先ほどからチクチクと胸を刺すもの――偽善者、と囁く声に苛まれていた。
(先生のような境遇の人は、少なくない。それなのに……先生一人だけを救い上げるのは、本当にいいことなの? 貴族として、許されることなの?)
たった一人に恩情をかけるのは、不公平だ。助けてほしい、辺境伯城で保護してほしいと思う人はもっといるのに、レイラだけ特別扱いするのか、と囁く声がある。
だがシャノンがその声について口にすると、エルドレッドは「問題ない」とばっさり切り捨てた。
「あなたがしようとしているのは偽善や贔屓などではなく、大義だ」
「大義……」
「シャノンはかつて、先生に救われた。私もまた、婚約者を導いてくれた先生に恩義を感じている。だから私たちは、困っている先生に助けの手を差し伸べる。……これは不平等ではない。過去にあなたが与えられた恩を、返しているだけだ」
エルドレッドの力強い言葉が、すとんとシャノンの胸に落ち着く。
彼がはっきりと断言してくれるから、これが詭弁などではなくてシャノンにとっての正義であり、自信を持って進めばいいものなのだと信じることができた。
(……そう。私は、先生を助けたい。私を助けてくれた恩を、返したい……!)
「……エルドレッド様。私、先生と話をします」
きりっとエルドレッドを見つめて、シャノンは言った。
「先生が望まないことはしません。でも、もし手を取ってくれるのなら……今度は私が、先生を助けようと思います」
「ああ、それがいい。私も、あなたのことを支えよう」
そう言って微笑むエルドレッドは文句なしに格好いいし、頼もしかった。
治療の途中で気絶したレイラだが、丸三日休んでしっかり食事を取ることでかなり元気になったそうだ。
そして彼女を城に連れてきて四日目の朝、医師からの許可も下りたためシャノンはレイラの部屋に行き、そこで恩師と改めての再会を果たした。
「先生……」
「シャノン様……お医者様から、話は伺いました。シャノン様と辺境伯閣下のご厚意でここまでしていただけるなんて……身に余る光栄でございます」
ベッドに腰掛けるレイラは、そう言った。その声は街で再会したときよりも張りがあったし、頬の艶も少しだけ出ているようでほっとした。伸び放題だった髪も切ったようで、肩先の長さの髪型もなかなか似合っていた。
「先生は子どもの頃の私を、教え導いてくれました。だから今、かつて受けた恩を返したいと思ったのです」
「……ありがとうございます。ですが私にはもう、返せるものがございません」
「違いますよ、先生。私が、先生に返している最中なのです」
シャノンはにっこりと微笑み、今自分が着ているコーラルピンクのスカートを軽く摘まんだ。
「これ、北方騎士団付事務官の制服です」
「……はい、伺っております。たぐいまれな才能を見いだされて騎士団の事務官になっただけでなく、辺境伯閣下の婚約者にもなられたと。……おめでとうございます」
「ありがとうございます。……でも私に『たぐいまれな才能』があるとしたらそれは、先生のおかげですよ? 私に読み書き計算を教えてくださったのは、先生です」
シャノンが笑顔で返すと、レイラは気まずそうに視線をそらした。シャノンを褒めたつもりが自賛することになってしまったからだろう。
「だから私もエルドレッド様も、先生のお力になりたいと思ったのです。私が実家を追い出された後に事務官になれたのもエルドレッド様と婚約できたのも、先生のおかげなのですから」
「……」
「……先生は、修道院に入られる予定だったのですか?」
小声で問うと、レイラはうなずいた。
「……五年前に父が、去年母が、亡くなりました。実家は手放したのですがろくな金にならず、路頭に迷っているときに……王都で、あなたの噂話を聞きました」
シャノンが目を細めると、レイラは薄い唇を噛みしめた。
「知りませんでした。あなたが子爵家を追い出され、巡り巡って辺境伯閣下の婚約者になられたなんて。……あなたは、私が受け持った生徒の中で一番付き合いが長く……最後に面倒を見た子でした。そんなあなたが辺境伯領で本当に幸せになれているのなら、もう思い残すことはない。あなたの幸せそうな姿を見たらそれで満足し、ここを去る予定でした」
早口でレイラは言う。城下町で再会したときもそうだったが、彼女は決して自分が金をせびるためにシャノンに会いに来たのではないと、信じてほしがっているようだ。
(もちろん、分かっているわ。お金目当てだったら遠くから見るだけに留めないし、私と目が合って逃げたりもしないもの)
レイラは本当に、シャノンの姿を見られたらそれで満足だと思っていて……目が合い、こうして城に連れて行かれることが彼女にとって想定外だったのだ。
「先生は今も、修道院に入るおつもりですか?」
「……他に選択肢がございません。働かなければ生きていけませんので、修道院のシスターになるしかないかと」
レイラはそう言うが、彼女はシャノンより二十ほど年上だったからまだ四十代半ばのはず。今は苦労と疲労のせいでくたびれているが、もう少し療養を続ければきっと健康になれるだろう。
(先生の性格を考えると、保護を受けるとは思えないわね)
本人も修道院入りしてシスターとして働くつもりだったようだし、体が動かなくなるまで働こうと思っているのだろう。
ただ庇護されるだけより、その方が彼女の気持ちも落ち着くのかもしれない。
力仕事などは難しくても、座り仕事なら――
「……そう、そうよ! 先生、事務官になりませんか!?」
いきなりぴんときたことをそのまま口にしたからか、レイラはきょとんとしてシャノンを見てくる。
「事務官……? それは、あなたのお仕事でしょう?」
「私は来年の春には退職し、結婚する予定です。今ちょうど、後任になってくれる人を探していたのですが……先生なら何も問題ありません!」
「え、ちょっと……待ってくださいな、シャノン様。いきなり言われましても……」
レイラは突然の提案に慌てているようで、シャノンも反省した。今少しずつ健康になりつつあるレイラに、あれこれ申し出るのは早すぎた。
「ごめんなさい、先生。いきなり変なことを言ってしまって……」
「いえ、お気になさらないでください。……でも、その、事務官なんて、私には務まりませんよ。もうこんなおばさんですし」
「年齢は関係ないと思います。読み書き計算ができれば大歓迎で、力仕事はありませんし」
シャノンはたまに薪を運んだりするが、あれはどれも自主的な行動だ。事務官は本来薪なんて運ばなくていいし、使用人に頼めば喜んで持ってきてくれる。
「日々の記録や手紙の返事、備品の管理などが主な仕事で……って、また私、調子に乗って……すみません」
「いえ。でも……私もちょっとだけ、あなたの仕事に興味が湧きました」
レイラはそう言って膝の上で手を重ね、微笑んだ。
「……元気になれたら、改めてあなたの話を伺ってもいいですか?」
「もちろんです! それに……私が仕事をする姿、先生に見てもらいたいです」
「まあ……」
ふふ、とレイラは上品に笑う。
彼女は平民出身ではあるが学校で必死に勉強したらしく、その立ち居振る舞いには十分な品があった。レイラを連れてきた母も、「庶民のわりに作法は整っている」と言っていたものだ。
……そんなレイラが笑うところをまた見られてよかった、とシャノンは心から思えた。




