36 幸せの春を共に
ランバート辺境伯領の春は、とても美しい。
「見てください、エルドレッド様! お花がこんなに」
「ああ、とてもきれいに咲いているな」
短い草が生える小川のそばにて、シャノンが摘んだ花を見せるとピクニックシートの上に座っていたエルドレッドは頬を緩ませて微笑んだ。
「だが、どの花よりも私の婚約者の方が美しい。……さあ、こっちにおいで、私の愛しい春の妖精」
「……も、もう! お上手なんですから!」
川辺に座り両腕を広げたエルドレッドに言われたシャノンは、照れ隠しも兼ねて少しだけ勢いをつけてエルドレッドの膝の上にどんと座った。
だがそれくらいで動じるエルドレッドではなく、彼は背後からぎゅっとシャノンを抱きしめて「いたずらっ子な子猫のようで、かわいいな……」とシャノンのささやかな抵抗さえ溺愛の材料にしてしまった。
厳しい冬が過ぎた後の辺境伯領は、それまでの一面の銀世界が嘘のような春の光景が広がっている。
王都近郊ほど草木は茂っていないが、長い冬を頑張って耐えた植物たちが芽を出し、花を咲かせていた。
今日、シャノンたちは仕事を休み、護衛たちを連れて小川に散歩に来ていた。護衛になったのはもちろんのこと北方騎士団員たちで、ディエゴは「あんまり腑抜けないでくださいよ」とエルドレッドにお小言をもらしている。
なお、いずれシャノンがエルドレッドと結婚して辺境伯夫人になったときに、身辺警護の騎士を専属でつけるべきだという話になっている。そこで立候補したのが、ラウハ、テルヒ、エリサベトの女性騎士たちだった。
元々シャノンと仲がよくて、婚約の話をしたときにも大喜びしてくれた三人だ。エルドレッドも、既婚者のディエゴや他の独身男性騎士よりずっと安心できるようで、このまま問題なければ三人がシャノン付になる予定だ。
ラウハの恋人も彼女の肌に傷が付くことをとても心配していたので、彼女が辺境伯夫人付になれば安心してくれそうだ。
エルドレッドと婚約して、国王の承認も得られた。
養子先となったブレイディ侯爵家からの後援もあり、シャノンは未来の辺境伯夫人として順調に生活することができている……のだが。
「さあ、菓子を食べよう。ほら、シャノン。あーん?」
「……エルドレッド様」
エルドレッドの膝の上で、シャノンは「待て」の仕草をする。彼女の顔のすぐ横には、エルドレッドが摘まんだ焼き菓子が。
「自分で食べられますので、大丈夫です」
「そんな寂しいことを言わないでおくれ。私は、手ずからシャノンに菓子を食べさせてやりたいんだ」
「もはや餌付けじゃないですか」
「餌付けの何が悪い!」
ここまで堂々と開き直られると、正論も何もなくなってしまう。少し離れたところで、ディエゴが自分の胃の辺りを押さえていた。大丈夫だろうか。
(エルドレッド様に甘やかされすぎて、困るわ……)
決して、「幸せすぎて困っちゃう!」というやつではなくて、彼の過保護っぷりにほとほと呆れてしまうのだ。
まだ結婚前なので寝室こそ分けているが、キスは毎日朝晩は必須、日中もとても物欲しそうな目でじっと見てきたかと思ったら物陰に連れ込まれ、うんと濃いキスをかましてくる。
シャノンのことを「小さい、かわいい、愛している」と思いつく限りの言葉で愛で、時間さえあれば構いに来る。
さすがに仕事に支障を来すようなら本気で怒るとシャノンが言ったからか、エルドレッドが仕事をサボる様子は見られない。
「シャノンは、怒った顔もかわいい」と言ってはばからないエルドレッドだが、本気で怒らせるつもりはないようなので、シャノンもその点は安心している。
仕事中は普通に格好いいのに、こんなにデレデレしていていいのか……とシャノンは思うのだが、辺境伯城の人たちからの反応は案外落ち着いたものだ。
どうやら、確かにエルドレッドが婚約者に向ける愛情はやや重めではあるものの、北国の男たちはわりと皆そういう傾向にあるそうだ。
(とはいえ、手綱を取るのも私の役目よね)
やれやれと思いながら、シャノンはエルドレッドの膝の上で座り直して彼と向き合う格好になった。
「それじゃあ、あーん」
「……ふふ。シャノンがかわいい……口が小さい……舌も小さい……キスしたい……」
「今はだめでふ」
エルドレッドに「あーん」された焼き菓子をほおばりながらシャノンがメッとすると、エルドレッドは少し残念そうな顔をしつつも「分かった」と引き下がってくれた。
たまに強引になるが基本的に聞き分けはいいところが、エルドレッドのよい点である。
シャノンは手を伸ばし、エルドレッドの体の横に置かれた皿から焼き菓子を一つ摘まみ、それをエルドレッドの口元に運んだ。
「はい、エルドレッド様。あーん」
「シャノン……!」
エルドレッドは感動で目を潤ませながら、口を開いた。
まさしく従順な飼い犬でかわいい……と思いながら、シャノンは菓子を持つ手をさっと返し、パクリと自分の口に入れてしまった。
それを見たエルドレッドは、ものすごくショックを受けた顔をしていた。焼き菓子を食べられなかったことより、シャノンにいたずらされ素っ気なくされたことの方がよほど堪えたと見える。
(……でもまあ、やりっぱなしだとかわいそうだから)
シャノンは小さく笑うとエルドレッドの両頬を手で押さえて顔を近づけ、半開きになっていた彼の唇にちゅっとキスをした。
「ふふっ。……お菓子の方がよかったですか?」
顔を離し、自分の唇の下のくぼみにとんとんと指先で触れながらシャノンが問うと、しばし呆然としていたエルドレッドの頬にじわじわと熱が上り、顔を手で覆ってしまった。
「……こっちの方がいい」
「それはよかったです」
(……強引になるときもあるのに、こういうのには弱いのよね)
エルドレッドが照れている間にシャノンは彼の膝から下り、ピクニックシートの上に座ってお菓子をひょいひょい口に運んでいく。
春の風が、気持ちいい。
「……辺境伯領の夏って、どんな感じなんでしょうか」
シャノンは、ぼそっとつぶやいた。
シャノンがここに来たのは、去年の秋だ。秋、といってももうここら一帯では冬の気配が強くなっていたので、実質シャノンにとって冬以外全ての季節が、初体験となる。
シャノンの声が聞こえたらしいエルドレッドが顔を上げて、穏やかに微笑んだ。
「王都よりもずっと涼しくて、とても過ごしやすい。湖に行って泳いだり、ボートに乗って遊んだりできる」
「そうなのですね。私は泳げないのですが、ボートは乗ってみたいです」
「いいな、一緒に乗ろう。子どもの頃に見つけた、とっておきの場所があるんだ。そこをシャノンに紹介したい」
「素敵ですね」
シャノンも微笑み、とん、とエルドレッドの肩に身を預けた。彼の腕がシャノンの腰に回り、そっと抱き寄せられる。
そのまま口づけられると、つい先ほどまでシャノンは焼き菓子を食べていたからか、唇の近くが少しざらざらする。
「甘いな」
「お菓子を食べていましたから」
「もっと、味わってもいいか?」
「……お好きなだけ、どうぞ」
シャノンはふふっと笑い、エルドレッドの首に両腕を回した。エルドレッドは片腕でシャノンを抱き上げてもう片方の手で頬に触れ、その唇の「甘さ」を十分に堪能しにかかってくる。
「愛している。私の愛しい人。……この地に舞い降りてきてくれた、春の妖精」
口づけの合間に囁かれたので、
「私も愛しています。私の……未来の旦那様」
シャノンも囁いたのだった。
番外編も投稿予定です!




