23 気づいてしまったもの③
(これは……ラウハ?)
片方は、女性騎士の一人であるラウハだ。毎日聞く声だから、間違いない。
相手の男性の方の声には聞き覚えがないが、ラウハが警戒しているわけではなさそうだから不審者ではなさそうだ。
「……そうか。やっぱり、ユキオオカミの調査は続けるのか」
「当然よ。あたしたち北方騎士団は、辺境伯領に暮らす全ての人の平穏のために戦うの。ユキオオカミの異常行動でその平穏が崩れそうになっているのだから、引くわけにはいかない」
ラウハの声はいつもどおり……に思えたが、なんだか少しだけ違う気がする。
いつもの彼女らしく強気ではきはきとしたしゃべり方だが……ほんの少し、甘えるような響きも含まれているように思われるのだ。
(こ、これって立ち聞きしない方がいいやつよね?)
とはいえ、シャノンの目的地である事務官室はこの廊下の先にある。別の道を使って行くことも可能だが、大回りになる。
(ど、どうしよう、一旦引いた方が……わっ、こっちに来ている!?)
おろおろしていると、なんと二人の方からこちらに近づく足音が聞こえてきた。シャノンは慌てて辺りを見回し、廊下にちょうどいい感じの柱の陰があることに気づいてさっとそこに身を滑らせた。
柱は大きくてシャノンは小柄なので、すっぽり身を隠せた。
その直後、ラウハと連れの男性が先ほどシャノンが立っていた場所までやってきた。シャノンの位置からだと柱の隙間から、相手の男性の横顔だけ見えた。
(やっぱり知らない人……だけど、服装からして本城で働く使用人かしら?)
「もちろん、君の信念はよく分かっているよ。……そんな君だから、僕はラウハのことが好きになったんだ」
(わあっ!?)
男性の言葉に、シャノンは思わず声を上げそうになって慌てて口を両手で塞いだ。
(そ、そういえばラウハ、彼氏がいるって言っていたけれど……)
きっと、この男性がラウハの恋人なのだ。頬を赤らめてラウハをじっと見つめる横顔からして、間違いない。
「でも、君の体に傷が増えるたびに吐きそうなほど苦しくなるんだ。僕は強くて格好いい君が好きなのに、もうこれ以上戦わないでって言いたくなる」
「ハンネス……」
「ごめん、ラウハ。僕みたいな優柔不断な男が恋人で――」
その後の男性の言葉は、声にならなかった。
なぜなら彼の襟元がぐいっと引っ張られ、ラウハにキスされたからだ。
(ひゃーーーーーっ!?)
柱の陰なのでキスシーンそのものは見えなかったが、ラウハが恋人を引き寄せてキスしたのだということは動きで分かってしまった。
「……ごめん、なんて言わないでよ」
「ラウハ……」
「あたしね、ハンネスが今そう言ってくれてすっごく嬉しい! あたしの誇りを肯定しながらも、怪我することを心配してくれるのが……すっごく嬉しいの」
ラウハの声は、弾んでいる。どう考えても、優柔不断な恋人に苛立っている様子ではない。
「ありがとう、ハンネス。……あたしやっぱり、ユキオオカミ調査を続ける」
「……」
「でも、絶対無事に帰る。もしあたしの体に傷が増えても……それでも、嫌いにならないでくれる?」
「ラウハ……ああ、もちろんだ! 愛している!」
感極まった様子の男性がラウハに飛びついたらしく、いよいよ二人の姿はシャノンの視界から消えた。
そのまま二人の足音は遠ざかっていったので、互いを想うが故の喧嘩に発展することなく仲よく去っていったようだ。
二人の足音が完全に遠のいても、シャノンは柱の陰から動けなかった。
(……びっっっっくりしたぁ!)
もう声を抑えなくてもいいのに、口元から両手を離すことができない。ともすれば、「きゃあ」みたいなかわいいものではない、奇声を上げてしまいそうだから。
シャノンが驚き戸惑っている理由の一つは、言わずもがな友人の恋愛場面を見てしまったからだ。
ラウハに恋人がいるというのは知っていたが、まさか恋人とのやりとりを垣間見てしまい……しかも女性の方がリードする形でキスをするなんて、元とはいえ貴族令嬢のシャノンにはやや刺激が強かった。
明日、どんな顔をしてラウハに会えばいいのだろうか。
……こちらについても十分シャノンを困惑させたが、それ以上の問題もあった。
先ほど、シャノンは気づいてしまった。
ラウハに恋する男性の横顔が、誰かに似ていたことに。
頬を赤らめ、恥じらいと喜びがない交ぜになったような、甘い表情。
本当に好きな人の前でしか見せないような、何かを期待するかのような眼差し。
……それを、シャノンもつい先ほど目の前で見たばかりだったのだ。
『そうか。……そうか。それはもしかしなくても――』
先ほどの、エルドレッドの言葉。
途中でディエゴの突っ込みが入ったので最後まで聞くことはできなかったが、あのときのエルドレッドも今の青年と同じような表情をしていた。
あれは、恋をする人の眼差し。
『閣下はシャノンが心配してくれていることが嬉しいあまり、少し混乱されているようだ』
ディエゴはそう言っていたが、きっとエルドレッドは混乱していたわけではなくて――
『邪魔をするな!』
『あのまま放っておいてショックを受けるのはシャノンの方でしょう』
……エルドレッドとディエゴのやりとりの前に、自分のどういう発言がエルドレッドをおかしくさせたのだったか。
それは確か……エルドレッドは結婚がまだで、跡継ぎも産まれていないということ。
『それはもしかしなくても――』
「あ……」
かちり、と頭の中でつながってしまった。
エルドレッドは結婚がまだで子どももいないという、シャノンの発言。
それを受けてエルドレッドが、恋をするような眼差しで言った「それはもしかしなくても」の発言。
いきなり突っ込んだディエゴ。「邪魔をするな」というエルドレッドの怒ったような声。
もしかして。
エルドレッドが言いたかったのは、
『それはもしかしなくても、シャノンが結婚してくれるのか』
みたいな言葉だったり――
「っきゃーーーーー!?」
転がる勢いで柱の陰から飛び出し、シャノンは悲鳴を上げてダンダンと床を拳で殴りつけた。
(わわわ私、なんて、なんてことを想像して……!)
床を叩くだけでは物足りなくて、床に額を打ち付けながらシャノンは激しく後悔する。
いくら、先ほどの男性とエルドレッドの表情が似ているからといって。
エルドレッドが思わせぶりなことを言うからといって。
(こんなっ、こんなはしたない妄想をするなんて……!)
打ち付けてじんじんする額を冷たい床にくっつけながら、シャノンはうううう、とうめいた。
エルドレッドは確かに、シャノンに優しい。周りの人たちも総じてシャノンには甘いが、エルドレッドはいっとう甘い気がする。
そして、今気づいたばかりではあるが先ほどの休憩室ではそういう雰囲気になっていたようにも思われる。
だが、だからといって自分とエルドレッドが結婚する想像をするなんて、妄想も甚だしい痛い女だ。
あのときエルドレッドが何を言おうとしたかなんて、分かりっこない。
それなのに、こんなに都合のいい想像をしてしまうなんて、自分が恥ずかしくなってきて――
(……ん? 「自分に都合のいい」……?)
床から顔を上げたシャノンは、はっと気づいた。気づいてしまった。
もしかしたら先ほど、エルドレッドはシャノンとの結婚について考えたのかもしれない。
……そんな想像をしてシャノンは嫌だと思うどころか、「自分に都合のいい」想像だと思った。
それはつまり……。
「私、閣下のこと……好きなの……?」
へたり、とその場に座り込んでしまったシャノンは、呆然とつぶやく。
シャノンはエルドレッドのことが好きだから、彼の思わせぶりな発言から結婚のことを想像しても嫌だとは思わなかった。
エルドレッドに話しかけられることが、心配されることが、気にかけてもらえることが……嬉しいとさえ感じていた。
「そんなぁ……」
先ほどまで自分の身を隠していた柱に寄りかかり、シャノンは力なく天井を見上げる。
そんな馬鹿な、こんなはずでは、と思いながらも。
かつて婚約者がいた頃にさえ一度も経験することのなかった胸のときめきを、シャノンははっきりと感じていたのだった。




