22 気づいてしまったもの②
それでもなおもエルドレッドが不機嫌そうだったので、シャノンは一歩彼に近づいた。
「閣下、本当に私たちには何もありませんからね?」
「えっ? ……あ、ああ。あなたがそう言うのなら、分かった。疑ってすまなかった、ディエゴ」
「シャノンが言うと本当に従順な飼い犬になりますよね……まあ、それはいいとして」
ディエゴはシャノンが印を入れた地図を丸めて、座っていた椅子から立ち上がった。
「わざわざこちらにお越しになったということは、何かご用事があるのでは?」
「ああ。ゴードンたちとも話をしてやはり、私も今度のユキオオカミ調査に行くことにした」
「閣下も!?」
思わずシャノンが声を上げると、こちらを見たエルドレッドが自信満々にうなずいた。
「ああ。子細はまだ言えないのだが、ユキオオカミの異変の原因についてある程度の見当は付いている。だが私の予想が当たっていれば大きな問題になるため、私が現地に赴いてこの目で確認することにした」
確かに前半については既にディエゴから聞いているのだが、後半については初耳だ。
これまでディエゴやラウハたち正騎士が調査に行っているのは知っていたが、それにエルドレッドも加わるとは。
「……大丈夫なのですか?」
にわかに不安になってきたのでシャノンが問うと、エルドレッドはおや、とばかりに片眉を跳ね上げて笑った。
「心配されるなんて、心外だな。私はこれでも、剣の腕が立つ。これまでに冬季の雄ユキオオカミと戦ったこともあるし、雪の中でも視界がきく方だ。それに解決案について知っているのは私やゴードン、ディエゴたちくらいだから、私が行った方がいい」
「それはそうですが……」
「もしかして、心配してくれるのか?」
声にほんの少しの期待を込めたエルドレッドが身をかがめ、シャノンの顔をのぞき込んできた。
いつもは見上げなければならない位置にあるエルドレッドの顔が間近に迫り、シャノンは思わず後ずさりする――が、すぐにブーツのかかとが何かにぶつかった。
硬い感覚のこれは、先ほどまでディエゴが座っていた椅子の脚だ。そしてついさっきまでシャノンの後ろにいたはずのディエゴはいつの間にか、壁際の方に移動していた。
彼は丸めた地図を手に明後日の方向を見ており、「私は何も見ていません」と言わんばかりの態度である。
(ディエゴさーん!?)
ついディエゴの方に助けを求めるような視線を向けてしまったのがよくなかったのか、エルドレッドはむっとした様子でシャノンの頬に触れ、自分の方に顔を向けさせた。
「今私が質問しているのだから、私の方を向いてほしい」
「ひえっ」
「シャノン。私がユキオオカミの調査に行くから、心配してくれているのか?」
先ほどと同じ質問を繰り返されるが、妙にその低い声に甘さが乗っている気がする。
基本的にエルドレッドがシャノンに対するときの口調は優しいが、今はいつもとは比べものにならないほどのトッピングがされているかのように思われた。
(なっ、どういうこと!?)
「あ、あの……」
「あなたはディエゴやラウハたちが出立するときには、堂々とした態度で見送っていたという。だが今は、心配してくれているということでいいのだな?」
なぜ、堂々とした態度だったと分かるのだろうか。見送りのとき、近くにエルドレッドはいなかったはずだが。
そんな疑問が頭をかすめたものの、エルドレッドに答えを急かされているためシャノンは渋々口を開いた。
「それは……もちろん、閣下はランバート辺境伯家の当主様ですから。決してディエゴさんたちのことを軽んじるつもりはないのですが……閣下にもしものことがあれば、皆が悲しむでしょう」
「……その『皆』の中に、シャノンも入っているのだな?」
「当然です! それに、閣下はご結婚もまだでしょう。辺境伯家の後継者もお生まれになっていないのですから、誰よりも御身を大事にしていただかなければ」
「えっ」
シャノンは臣下として当然の諌言をしたつもりだが、なぜかエルドレッドはものすごく驚いた顔になった。彼の背後で、ディエゴが「あちゃー」みたいなポーズをしている。
シャノンにぐいぐい迫っていたエルドレッドはさっと距離を取り、口元を手で覆って黙り込んでしまった。青色の目が見開かれており、大きな手の隙間から見える頬はほんのりと赤い。
「シャノン……そこまで考えてくれていたのか?」
「臣下として当然です」
「そうか。……そうか。それはもしかしなくても、シャノ――んんっ!?」
何か言いかけたエルドレッドの背中に、スパーン! とディエゴによる丸めた地図の一撃が決まった。その地図は長期間保存用なのだが、大丈夫なのだろうか。
部下の突っ込みを受けたエルドレッドが衝撃で沈黙している隙に、二人の間にディエゴが割って入った。
「あー、すまない、シャノン。閣下はシャノンが心配してくれていることが嬉しいあまり、少し混乱されているようだな」
「そんなことがあるのですか……?」
「あるんだよ。とにかくまあ、君の心配はありがたいが無用だ。ご本人も言われていたように、閣下はお強い。それに君が思っている以上に聡明な方だから、ヘマもしないさ」
「ディエゴ、おまえというやつは……」
エルドレッドはディエゴを恨めしげに見たが主君のそんな視線もものともせず、ディエゴはとんっとエルドレッドの背中を叩いた。
「そういうことで、これから私は閣下たちと一緒に作戦会議を開く。シャノンは通常業務に戻ってくれ」
「あっ、はい」
視線で「早く行きなさい」と促されたので、シャノンは会釈をして二人の前を通り過ぎた。
休憩室を出てしばらくして、室内から「邪魔をするな!」「あのまま放っておいてショックを受けるのはシャノンの方でしょう」と主従が言い合いをする声が聞こえてきた。
(……私がショックを受ける?)
一方のシャノンは、なぜエルドレッドが急におかしくなりディエゴに突っ込まれたのか、分からなかった。
自分は主君の身を案じる立場として、ごく普通のことを言っただけだ。
エルドレッドにはまだ子どもがいないのだから、彼が万が一にもユキオオカミとの戦いで命を落とすようなことがあれば跡継ぎ問題になる。そうなると、悲しいどころの話ではなくなるのだ。
(そこからどうして閣下は、「もしかしなくても」みたいなことにつなげたのかしら……?)
はて、と考えながら城内を歩いていたシャノンはふと、廊下の先から男女の声が聞こえてくることに気づいた。




