俺の女上司はパワハラはしないけど「ハラハラ」させてくるから困る
朝8時半、若手社員の武藤真吾はオフィスに出社する。
まだ眠気の抜けていない足取りでデスクに向かう。
「おはよう、武藤君!」
上司の江田数葉が快活な挨拶で出迎える。
「おはようございます、課長」
真吾も挨拶を返す。
数葉は真吾の三つ年上で、髪は黒のショートボブ、顎は細くキリッとした眼を持ち、スーツのよく似合う凛とした女性であった。
彼女を見ると、真吾の眠気もたちまち吹っ飛んでしまう。
「それにしても暑いわね~」
「ですね。俺も汗ばんでますよ」
季節は初夏だが、前日に雨が降ったこともあり蒸し暑い日だった。
すると――
「ふぅ~、あちあちあち」
数葉は胸元をはだけ、右手であおぎ始めた。ブラが見えかねない勢いである。
「ちょっ!? 課長!?」
真吾に驚かれ、数葉は慌てて胸のボタンを留める。
「あ、ごめんなさい。こういうのもセクハラよね」
「セクハラっていうかハラハラしましたよ……」
朝っぱらから上司のあられもない姿を見るところだった。
ぶっちゃけ見られるもんなら見たかったけど、という本音はどうにか押し隠す。
今日も俺は課長にハラハラさせられるんだろうなぁ、と真吾の頭には不安がよぎるのだった。
***
午前中、真吾らの課に大きな予定はなく、社員たちは各々の雑務を処理する。
数葉が突然、自分のスマホを取り出した。
「あら、メールが来てる」
真吾はそれを横目で見る。
数葉はにわかに取り乱し始めた。
「ええっ!? 嘘!?」
「どうしました?」
「すごい知らせが来たの。私に1000万円くれるんだって!」
「は?」
「だけど、メールに書いてあるURLにアクセスしなきゃいけないらしくて……」
「ダメですよ!!!」
真吾は反射的に叫んだ。
「絶対ダメですよ、そんなのにアクセスしたら! 迷惑メールに決まってるんですから!」
「だけど、万が一ってことも……」
「ないない! 億も兆もありませんよ! さっさと削除しちゃって下さい!」
「うーん、もったいないけど、しょうがないか」
数葉はスマホを操作してメールを削除する。それを見て真吾はホッと一息つく。
「課長、今までそういうメールはどうしてきたんですか?」
「間違えて消しちゃったり、なんとなく無視しちゃったり、色々ね」
「運がいいんですね……。とにかく、怪しいメールに反応しちゃダメですよ! 架空請求が来たり、スマホの情報を抜かれたりしちゃいますから!」
「分かったわ、そうする」
真吾はまたしてもハラハラさせられてしまった。
***
時計が正午を回り、昼休みとなった。
「武藤君、午後は一緒に外出だし、お昼一緒に食べない?」
「あ、行きます!」
午後は大口の取引先で製品のプレゼンテーションがある。二人はオフィスの近くで昼食を取ることにした。
のんびりできるほどの余裕はないので、早さがウリのチェーン系のそば屋に入る。
「俺はざるそばにします」
「じゃあ私はカレーうどん!」
「え……!」
「なに?」
「いえ、大丈夫かなぁと思って」
「平気よぉ。私、辛いのもへっちゃらだから」
そういうことじゃないんだけどな、と真吾は内心思う。
5分と経たずに、注文通りの品が出てきた。
丁寧に「いただきます」をすると、数葉はカレーうどんを豪快にすすり始めた。
カレーうどんは音を立てるのが粋なんでえ、とばかりに。文字にすると、ズゾゾゾッ、ズゾゾゾッ、という感じで凄まじい勢いである。
スーツやシャツにカレーが飛び散るのではないかと真吾はハラハラしてしまう。
意識を数葉に奪われ、せっかくのざるそばもあまり味わえない。
「あー、美味しかったー」
結局、数葉は服を一切汚すことなくカレーうどんを平らげた。
「武藤君は? 美味しかった? 腹いっぱいになった?」
「えーと、腹いっぱいというかハラハラしてました」
***
食事を済ませ、プレゼンを行う取引先へ向かう。
「今日のプレゼンは失敗できませんね」
真吾が数葉を見る。
だが――
「あーっ!!!」
「どうしました?」
「資料……忘れちゃった」
「マジですか!?」
「……マジみたい」
数葉が口をすぼめる。
プレゼンは彼女が行うことになっており、自社製品の資料を作り、それを刷ってきたのだが、全部会社に忘れてしまったという。
「どうするんです!? 今さら戻る時間はないですし……」
「うーん……」
五秒ほど考えてから数葉は言った。
「仕方ない、資料無しでやりましょう」
「えええっ!? そんな無茶な!」
「なせばなる、よ。さ、行きましょう!」
そのまま取引先に向かった。
プレゼン会場には大会議室が用意されていた。
真吾の会社はかなり注目されており、重役や部課長クラスの姿も見える。
こんなメンツ相手に資料無しなんて無茶だ、と内心で冷や汗をかく。
だが、数葉はそんな態度をおくびにも出さない。
「皆様、これより弊社の新製品のプレゼンテーションを行いたいと思います」
先方の社員が近づいてくる。
「では私が資料をお配りしましょう」
「いいえ。資料は用いません」
数葉の言葉に会場がざわつく。
「資料を用いて説明するのは簡単です。しかし、それをやってしまうと、資料を見るのに意識が集中してしまい、私の話が伝わりにくくなってしまう恐れがあります。そのため本日は資料無しでプレゼンに臨ませて頂きます」
“資料を忘れました”という真相をまるで感じさせない堂々とした姿勢でプレゼンに挑む。
真吾も「よくここまで自信満々に言えるな」と感心してしまう。
ここから先の数葉は完璧だった。
自社製品のスペック、強みなどを完璧に記憶しており、しかも分かりやすく説明する。時にはユーモアも交えてプレゼンを行った。
真吾を含めた会場全員が数葉のトークに聴き入る。
反応は上々で、結果は大成功だった。
重役クラスの人物からも高い評価を得る。
「素晴らしかった。最近は資料の内容をそのまま読み上げるようなプレゼンばかりを見てきたから、非常に新鮮だったよ」
「ありがとうございます」
そんな数葉を傍目から見ていた真吾は、尊敬の眼差しを浮かべる。
これが若くして課長にまでなった女の実力。ハラハラさせられるけど出来る人なんだよな、と改めて思い知らされた。
***
午後7時過ぎのオフィス、課はすでに真吾と数葉の二人きりになっていた。
数葉がちらりと真吾を見る。
「武藤君、今夜は飲みに行かない?」
「いいですね!」
会社近くの大衆居酒屋に入る。
明日も仕事はあるので、ビール一、二杯で済まそうということになったが、数葉は酒に強くなくこの量でも赤らんでしまう。
会計を終えて外へ出ても、歩き方がおぼつかない。
「あ~……酔っちゃった」
「ハラハラの次はフラフラですか。気を付けて下さいよ」
駅に到着する。二人の自宅は正反対なので、ここで別れることになる。
不意に、数葉が体を寄せてきた。
「君には期待してるからねぇ、武藤君」
「は……はいっ!」
上目遣いでややスーツのはだけた数葉は普段にも増して色っぽかった。
真吾はそんな彼女に視線を向ける。
「課長……。もし俺がもっと一人前になったら、その時は俺を部下ではなく、一人の男として見てくれませんか」
酔いも手伝って大胆な台詞を吐いてしまった。
数葉はじっと見つめ返すと――
「いいわよ」
この返事に真吾は歓喜する。
「なんなら今からでも男として見てあげてもいいけど……」
「え、え、え」
真吾の心拍数が跳ね上がる。
「冗談よ、冗談! また明日ね~!」
数葉は真吾の肩をバンバン叩くと、自動改札を通過していった。
真吾はその背中を見送りながら、今日もハラハラさせられっぱなしだったなと頬を緩めた。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。




