ぬくもり
十二歳になった秋、俺は熱病を患った。
高熱を発し続け、何も食べられなくなり、何度も黒っぽい水を吐いた。
ジルは毎日見舞いに来てくれた。時には俺の汗を拭いたり、吐いたものの始末までしようとして、ニコや女官たちに止められた。
俺は不幸せだったが、幸せだった。
だって、いつも公爵令嬢らしくふるまい続けているジルが、青白い顔で、目の下にくまを作って、泣きそうな瞳で、俺を、俺だけを見ているのだから。
周りの看病のおかげか、俺はしばらくして回復した。少しふらつくが、ジルとも笑って会話できるようになった。
念のためにと、病後の検査を受けたが、俺はたいして心配していなかった。
宮廷医ではなく、父が結果を知らせに来た。青白く、こわばった、実に悲しそうな顔をして。あれは父なりの優しさだったのだろう。
子種を作る能力がなくなったと、父は告げた。
俺は、熱病にかかったことではなく、死ななかったことを呪った。
あのまま死んでいれば、ずっとジルに叶わなかった恋の思い出として、憶えていてもらえた。
子種のない王太子など、そんな間の抜けた存在として、ジルにずっと憐れまれ続けるなんて、絶対に嫌だった。
二人きりで話したいと言って、王妃教育のない日に、俺はジルを呼び出した。
ジルには正直に全てを話そう。婚約を解消して、ジルを自由にしてやる。
こちらからジルを嫌いになったと言って、一方的に婚約破棄をするのも考えたが、上手く嘘をつける自信がなかった。この時、俺はまだ子供だったのだろう。
自室のベットに座ったままで、ジルとは顔を合わせずに話をした。レースのカーテンの隙間から差し込む光が、妙に柔らかかったのを憶えている。
「嫌です」
鋭い声に、俺は驚いたが、ジルの方を向くことができなかった。
「婚約は解消いたしません」
ああ、同情されている。俺はうなだれた。
「何言ってるんだ。そんなに王妃になりたいのか。俺と結婚したって、王子は作れないんだぞ。お前も王妃殿下みたいに、子供ができないのを、お前だけのせいみたいに言われ続けるんだぞ。俺は自分の体のことを公表する気はない」
「構いません。他の王族の方に王嗣になっていただきましょう」
「馬鹿言うな。俺は王太子の地位から外されて、坊主にさせられるかもしれないんだぞ」
「でしたら、私もお供いたします。一緒に神にお仕えしましょう」
「そんなことできるものか。周りが許すはずないだろ。お前の母親が絶対に認めないだろ。坊主の妾になるなんて」
ジルが初めて言葉に詰まった。
父親のクソ以下の公爵が屋敷に帰ってこなくなったのは、ジルが生まれてすぐのことだったらしい。夫人も夫を見限り、その分娘に熱心な教育を施した。時に過剰すぎるほどの。
娘のジルは、たった一人の家族に心配をかけたくない、期待に応えたいと懸命だった。
そして、一人の完璧な公爵令嬢が出来上がった。にこやかな表情の裏に、苦しみを隠した。
俺は、ジルが母親を切れるわけがないことをよく知っていた。俺自身が、七年たっても、母の死から立ち直れていなかったから。
「話は終わりだ。…出て行ってくれ」
俺は吐き捨てるように言った。
「嫌です」
かたくなな声に、俺はジルの方を見た。
「母は、分かって下さるまで説得いたします。王になれなくても、出家しなくてはならなくなっても、お側にいます。いえ、おかせてください」
ジルは、泣いていた。
捨てられてやる、と言っているのは俺なのに、どうしてこいつが泣くのだろう。
俺は大声を上げた。
「同情するな!俺といたって、子供は作れないって、言ってるだろうが!血を残せないんだぞ!母親になれないんだぞ!」
「同情じゃない!!」
ジルは、俺以上の大声を張り上げた。王妃教育を受けてきた令嬢とは思えぬほどの。
「死ぬ前に後悔することになります。あなたと、テオ君と一緒にいることを選ばないことの方がずっと…」
ぐずぐずと鼻を鳴らせて、ジルは言った。
今から思い返しても、あれはひどい泣き顔だった。
頬は真っ赤。ひっくひっくとしゃくり上げ、何度もあふれる涙を手で拭っていた。
よく「百年の恋も冷めるような」という表現が使われるが、あれはまさに、そんな泣き顔だった。
だが、俺はジルを思って、自分をなぐさめる度に、まずあの日を思い出すことになる。
まだ女に成り変わる前の、あの不細工な泣き顔に、俺は欲情してしまった。
どうやら、俺は綺麗なものが崩れるのを見るのが大好きな、変態らしい。
「じゃあ、ここにきて、俺のこと、抱きしめて見せろよ」
俺は、震え声でジルに命令した。
今度は、ジルが驚いて、俺を見つめた。
たとえ、幼い頃であっても、異性と必要以上に触れ合うことは、貴族の常識から外れた行いだ。ましてや、俺はベットに座ったままだった。
王妃教育を六年も受け続けているジルに、そんな振る舞いができるはずがない。そう分かっていたが、俺はどうしても、命じずにいられなかった。
ジルはしばらく固まっていたが、座っていた椅子から、立ち上がった。
ドアの方に向かうのではないかと、一瞬俺は心配したが、とてもゆっくりとした歩みで、こちらに向かってきた。
まっすぐに俺を見つめ、ベットに腰かけた。
そして、俺は抱きしめられた。
おずおずと俺の肩に手を伸ばしてきたジルの姿を、一生忘れないと思った。
震える体を、温かな熱を、うるさいほどの鼓動を、死んでも忘れないと思った。
俺は押し倒すのを我慢する代わりに、ジルにしがみついて、泣いた。
ジルの血を伝えられないことが、口惜しかった。
ジルを盗られる不安につきまとわられるだろうことが、辛かった。
ジルが俺を好きだという事実が、嬉しかった。
秋の柔らかい光を感じながら、俺たちは抱きしめあった。
泣いて、泣いて、泣いて、俺は決めた。
俺からこのぬくもりを奪おうとする奴は、全て消し去ってやる、と。




