哀れな公爵令嬢
可哀そうな話が始まります。
いつになれば、私は眠りにつくことができるのでしょうか。
何度も、粗末な寝台の上で、寝返りをくり返しました。目は全くさえております。
明日の処刑に備え、しっかり眠らなくてはいけないというのに、困ったものです。
寝不足でふらついた体で、断頭台に向かうわけにはまいりません。私は公爵家の娘として、背筋を伸ばして、しっかりと歩かなければならないのです。
薄い毛布をかけ直し、眠気がやってくるのをじっと待ちました。
暗くて全く物音の聞こえない牢獄ならば、屋敷の私の寝室よりは、眠りにつくことは容易いのではないかと思いましたが、間違っていたようです。
私の寝室の隣は、異母妹の寝室です。間を隔てている壁は決して薄くなっているわけではないはずですが、あの方と異母妹が睦みあっている物音は、本当によく聞こえました。
三日にあげずに、あの方は異母妹のところに忍んで通っておられました。政務に差し障りが出てしまうのではないかと、私が案じてしまうほどに。
どうして、あの方はあのようになってしまわれたのでしょうか。幼い頃から私はあの方を見知っておりましたが、今では全く私の知らない方のようです。
やはり、本当の恋を知ってしまわれたという事でしょうか。
ああ、何ということでしょうか。私は早く眠りにつかなくてはいけないというのに、あの方のことを、あの方のことばかりを考えてしまっています。
「馬鹿ですね」
思わず、独り言を呟いていました。誰もいない牢獄での独り言は、しんしんと沁みて、一層孤独を感じさせます。
考えてはいけないことなのに。想っても仕方ないことなのに。そう何度も自分に言い聞かせました。それなのに、どうして、どうして、私はあの方のことばかりを思い描いてしまうのでしょうか。
外が何だか騒がしくなってきました。
がちゃん、と音がして、扉が開かれました。私は寝台から身を起こします。灯りが私の顔を照らし、眩しさに目を閉じてしまいました。鉄格子の向こうから、甲高い声が投げかけられます。
「いいザマね。お姉様」
異母妹のマチルドが、あの方、私の婚約者のテオドール殿下にしなだれかかっていました。
テオドール殿下は冷たい瞳で私を見下しておられ、マチルドは心底楽しそうに私を笑っていました。
私は寝台から降り、身繕いをして、二人の前に立ちました。
おそらく、この二人は、私を最期に嘲笑しに来られたのでしょう。それでも、テオドール殿下はこの国の王太子殿下。礼を失するわけには参りません。
「王国の星、王太子たるテオドール殿下に、臣ジル・トゥールーズ、拝謁いたします」
私は目を伏せ、カーテシーをいたしました。とたん、マチルドがぷっ、と吹き出しました。
「あははは!本当、馬鹿みたい!罪人が何を格好つけているのよ!」
テオドール殿下は何も仰いませんでした。ですが、きっといつものあの恐ろしい、邪悪そのものの笑みを浮かべていらっしゃるのでしょう。
マチルドは、テオドール殿下のあの笑みを知っているのでしょうか。いいえ、きっと知らないでしょう。常にテオドール殿下の隣りに侍っていますが、私を見下していらっしゃる時にだけ浮かべる、あの笑みを見たら、例えどんなにお慕いしていたとしても、逃げ出したくなるでしょうから。
私が異母妹のマチルドとその母、現トゥールーズ公爵夫人と初めて顔を合わせたのは、五年前の冬のことでございました。
父、トゥールーズ公爵は、王都の一番大きな別宅にマチルドとその母を住まわせ、私と私の生母である正妻のいる本宅には、滅多に訪れることはありませんでした。領地であるトゥールーズ公爵領の統治も、母と古くから使えてくれてある家人に任せきりです。
ごく稀に本宅に訪れてきても、母にお金の無心、いいえ、恐喝を行ってばかりの父を、私は敬愛することがどうしてもできませんでした。
―あの人を憎んでも、何も始まりません。
―あなたはトゥールーズ公爵家の娘、ただ一人の嫡子です。それに恥なきように生きなさい。
王国の、王妃殿下のただ一人の姉であり、筆頭公爵家アンジュー家の長女でもあった母は、私にそう言い続け、働きづめのまま世を去りました。
母の喪も明けきらぬうちに、父はマチルドとその母を伴って、本宅に乗り込んできました。「やっと死んだか。あの忌々しい女め」という言葉がまだ耳に残っております。
父は、長年仕えてくれていた家人を次々に追い出していきました。十二歳の私には、ただこっそり私が母から受け継いだアクセサリーを、彼らに退職金として分け与える位しかできませんでした。
父は私も追い出そうとした様ですが、王妃殿下の姪であり、六歳の頃から王太子殿下の婚約者でもあった私には手を出せなかったようです。
母を失った日から今日まで、私は屋敷で過ごしている間、心が休まることがありませんでした。
最初のころ、私は異母妹のマチルドとは仲良くなれるのではと、淡い期待を抱いておりました。
不義を働いたのは父と継母であり、マチルド自身には何の罪もありません。もしかしたら、父親を選ぶことができなかった者同士、心を通わせることができるのではないか。そう思ったのです。
結局、マチルドとは他人よりも遠い関係しか築けませんでした。というよりも、話が通じることが全くなかったのです。
―私は愛し合う恋人たちの間に生まれた、神の愛し子。政略結婚の結果のあんたなんかとは違う。
―あんたがそんなに不幸なのは、前世の行いが悪かったから。だから神様の代わりに、私がもっと罰を与えてあげる。
―私は幸せになって当然の人間。選ばれた特別な存在。ヒロインなのですもの。悪役令嬢のあんたは、踏みつけられるのがお似合いよ。
マチルドの言う、『悪役令嬢』とは一体何だったのか、今でも分かりません。きっと、マチルドが一人で考えた、『ヒロイン』の物語における敵役なのでしょう。
マチルドはこの様に、独自の世界で生きていました。父も継母も、マチルドを猫かわいがりするばかりで、彼女の不用意な発言を窘めるなどということはありませんでした。愛情ゆえにすべてを許していたのでしょう。
正直、私はマチルドについて、きっと貴族の世界では生きていくのが難しいだろうと思っておりました。
人間は基本的に変わった存在、自分たちのルールに合わないものを嫌う生き物です。既得権益を当然とし、格式を重んじる人間、すなわち貴族ほどその傾向が強いものと私は考えています。『ヒロイン』という独自の世界観を持つマチルドは、きっと爪弾きにされてしまうだろうと思っておりました。
ところが、私の予想に反し、貴族社会の縮図である王立学園に入学したマチルドは、次々と令息方を虜にしていったのです。
そして、私の婚約者、王太子テオドール殿下もまた、マチルドに魅了された方の一人でした。
虜となられた令息方は、それぞれ婚約者がおありの方ばかりでしたが、王立学園にいる間、マチルドの傍には必ずどなたかがいらっしゃいました。
さすがにこれは、マチルドの将来にも良くないと思い、私は一度苦言を呈したことがございます。
マチルドは相当気に入らなかったと見え、「お姉さまが嫉妬して、意地悪なことを仰るの」と涙ながらに令息方に訴えた様です。
以来、私は『妹いじめの悪女』になり、様々な方から遠ざけられるようになってしまいました。唯一まともに交流してくださいましたのは、同盟国メディナ帝国からの留学生、マフムート皇太子殿下だけでした。お優しい方ゆえ、同情してくださったのでしょう。
王立学園でも屋敷でもほとんど居場所のない私は、すっかり疲れ切り、「母のところに行ってしまおうか」と考えたことも幾度かございます。
それでも今日まで生きてきましたのは、「いつかはテオドール殿下も目を覚ましてくださる」という期待があったからでした。
そんな期待はただの夢、いえ、妄想にすぎませんでした。
二日前、私は一人で王立学園の庭園の片隅で、読書をしておりました。急に辺りが騒がしくなり、本から顔を上げました。
私の周りには、王国騎士団の方々が、黒い装束を召されて立っていらっしゃいました。
ガリア王国騎士団の方々の黒い装束は、王族が亡くなられた時、もしくは高位の貴族を何らかの罪で捕える時のものです。
私は、外遊中の国王陛下御夫妻や、王宮にいらっしゃる第二王子アルフォンス殿下に何かあったのではないと、直感いたしました。
騎士団長エルキュール・ポワゾン伯爵閣下が、私を憐れむような目で見つめられ、こう仰いました。
「ジル・トゥールーズ公爵令嬢、貴女をマチルド・トゥールーズ公爵令嬢及びアンリエット・トゥールーズ公爵夫人毒殺未遂の容疑で、逮捕いたします」
私は、自分がとうとう見限られたことを思い知らされました。
「承知いたしました。…王太子殿下の御命令ですね」
自分でも、どうしてこれほどと思うほど、平らな声が出ました。
伯爵閣下は無言でうなずかれました。
その後のことは、すべてが靄のかかったかのように、曖昧な記憶しかありません。
王立学園から王宮の牢へ入れられるまでのことも、私が受けたはずの尋問も、何もかも。
ただ、明日の日の出とともに執行される私の処刑まで、取り乱すようなことはしてはいけないと、自分に言い聞かせ続けていたことだけは覚えております。
私は、トゥールーズ家嫡女、ジル・トゥールーズ。だから、恥なきように生きなければ。
「全く、馬鹿なお姉様。そんなことしたって、何にもならないのに」
マチルドの冷笑が聞こえ、私は現実に引き戻されました。
私は、ただ黙って目を伏せたまま、テオドール殿下のお言葉を待ちました。
「ジル。君にお願いがあって、ここに来たんだ」
テオドール殿下が、楽しそうなお声でおっしゃいました。
私は投獄され、明朝に処刑される身です。いったいどのようなご依頼だというのでしょうか。
「毒杯をあおってくれ。今ここで、すぐに」
鉄格子の間から、テオドール殿下が手を伸ばされ、私の目の前にガラスの小瓶が置かれました。
「…私の処刑は、明朝のはずです。なぜ、そのように急がれるのでしょうか」
人間はあまりに驚くと、かえって、抑揚のない声が出るようです。
テオドール殿下は、ははっ、と笑い声を上げられました。
「決まっているじゃないか。君がジル・トゥールーズとして生きている一分一秒が、もう耐えられないからだよ」
私は、伏せていた目を上げました。
テオドール殿下が、にこやかに笑っていらっしゃいました。何の邪気もない笑顔で。
私は思わず、テオドール殿下を睨みつけてしまいました。公爵令嬢としての振る舞いから外れた行いです。王太子殿下を目の前にして、なんという不敬でしょうか。
どうしたことでしょう。目に力を入れたせいでしょうか。鼻がつんと痛くなり、涙がどんどんあふれてまいります。
涙目で王太子殿下を睨みつける。何人の前でも、常ににこやかに、淑やかに。王妃教育でそう言われ続けてきたというのに、なんという行いを私はしているのでしょうか。
テオドール殿下は、そんな私をご覧になられ、笑っておられました。
先ほどまでの無邪気な笑顔ではありません。口の端を吊り上げ、私をただじっと見つめておられます。心底楽しそうに。歪んだ光を宿した瞳で。
憎い。父よりも、継母よりも、異母妹よりも。私は、殿下、あなたが憎い。心底憎い。誰よりも憎い。
もう、疲れ切ってしまいました。
私は、しゃがんで、目の前に置かれたガラスの瓶を手に取りました。
空いたほうの手の甲で、涙をぬぐい、立ち上がります。
「臣、ジル・トゥールーズ、王太子テオドール殿下より死を賜りました」
瓶の蓋を開け、一気に中身をに飲み干します。
眠気がやってきました。きっと私は苦しみ、のたうちまわって死ぬのだろうと思っていましたが、毒には全く何の苦みもありません。きっと、テオドール殿下の最後の思いやりでしょう。
きゃははは、と耳に触る甲高い笑い声が聞こえます。
「さっさと死んでね。お姉様。私のお腹にいる、テオ様の赤ちゃんのためにも」
私は驚いて、テオドール殿下とマチルドを見ました。
赤子などいるわけがありません。だって、テオドール殿下は。
テオドール殿下は、やはり怖ろしい笑顔を浮かべていらっしゃいます。マチルドは全く気づいていないのか、私を指さして高い声で笑っていました。
テオドール殿下、あなたはそこまで、マチルドを愛していらっしゃるのですね…。
私は立っていられなくなり、床に膝をつきました。上半身が支えられず、その場に伏しました。
早く終わってください…。もう何も見たくありません。
私は目を閉じました。
これまでのテオドール殿下との思い出があらわれます。
二人でこっそり、王宮の池にザリガニ釣りをしに行ったこと。
二人きりの時は、テオ君と呼ぶように決めたこと。
死んでも婚約破棄はしないと、言ってくださったこと。
秘密を打ち明けてくださり、泣きながら抱き合ったこと。
みんな、今となっては、忘れてしまいたいことばかり。
もし、本当に、生まれ変わりというものがあるのならば、次の生では、いいえ、永遠に、テオドール殿下、あなたにだけは会わずに済みますように。
さようなら、私の大切なテオ君。
続きます。
ギャフンが来ます。
ハッピーエンドかバットエンドかは皆様のお好きなようにお取りください。