1.引きこもり、ベースゼロに行く
瞼の裏に眩い光を感じ、私は目を開ける。ぼんやりと視界に映る天井を見上げながら、私はほうっと深いため息をついた。
―朝だ。絶望の朝がやってきた。
窓の外から子供の声が聞こえる。学校へと向かう小学生たちの声だろう。きゃはきゃはと響く楽し気な笑い声に、嫌気がさし私は布団にもぐりこんだ。
「真奈、遅刻するわよ。いつまで寝ているの?」
「んー」
ガチャリと扉が開く。脳に響く母の声に私は顔をしかめた。一向に起きようとしない私にしびれをきらしたのか、母はそのまま部屋に入ってくると私の布団を引きはがそうとした。
「真奈!いい加減起きなさい!今日学校でしょ!?」
ぐいっと力強く引っ張られる布団。私はそれを必死に抱きしめながら、首を横に振った。
「行きたくない…」
「え?何を言ってる「行きたくない!!」…は?」
静寂な部屋に響く私の悲痛な叫び。普段声を荒げるタイプではない私が、いきなり叫んだことに驚いたのか、母は驚愕の表情を浮かべて私を見ていた。
「もう嫌だ。突き刺さる視線も、ひそひそと囁かれる声も…」
「まな…?一体、何が…」
「もう学校には行かない。学校も辞める」
もう、うんざりだ。あの教室に行くことを想像しただけで反吐がでる。今だって、手がありえないくらい冷たくて震えているのに…。向こうに行ったらもう、自分で自分が何をするか分からない。
勉強なんて家でできる。寧ろ、学校にいる方が周囲の視線が気になって、勉強に手がつかなかった。
私は母に取り上げかけられていた布団を完全に取り戻すと、再びベッドにもぐりこんだ。母は未だに今の状況が理解できないのか、フリーズしている。
「…ちょっ、真奈。いきなりそんなこと言われても困るわよ。せめて事情を…」
「出て行って!」
今は何も思い出したくなかった。私の剣幕に母は何かを感じ取ったのか、口を閉ざすと静かに部屋を出ていく。それを確認した私はほうっと息を吐くと、再び瞳を閉じるのだった。
※※※
きっかけが何なのかは分からない。もともと自分は周りと何かが違うという違和感はあった。でも、だからといって学校生活に支障が出ているわけではなかった。普通に自分の席について、ひっそりと授業を受けて、下校時間になったら帰るという生活を送っていただけだ。
周りは部活動に参加している人が多かったが、人見知りが酷く、碌に人と会話ができない私は部活動には参加していなかった。
そんな私だから友達なんて呼べる人はいなかったし、逆に言えば人間関係が崩れるなんてこともなかったはずだった。だって、人間関係と呼べるような関係は築けてすらなかったのだから。
入学してから1ヶ月経った辺りで、突然変化は訪れた。その日、登校して教室に入って自分の机になぜかゴミが置いてあった。菓子パンの袋だったので、きっと誰かが放課後に食べて適当に置いたまま帰ったのだろう。放課後、教室でたむろする生徒たちは誰の机だろうと構わず座り、友達と喋ったり、軽食を取ったりする。私はそれを知っていたので、ゴミくらい捨ててよと心の中で思いながらも、仕方がなくゴミ箱にその袋を投げ捨てた。
次第に違和感を覚えるようになったのは、なぜかクラスの女子たちがこちらに視線を向けて、ひそひそと話すことが増えたあたりだ。最初は自意識過剰かと思ったが、さりげなく彼女らの会話を聞いて、それが勘違いではなかったと悟る。
「あの子、感じ悪くない?」
「いつも澄ました顔で、あそこに座って、何様って感じだよね」
「分かる。挨拶しても、そっけなく返されるだけだし。私たちのこと、見下してんじゃない?ほら、あの子頭はいいし」
「そういえば、この間のテストでも上位だったっけ。うわぁ、やっぱ天才様は違うねぇ」
ショックだった。そんなつもりは一切なかったし、挨拶だって精一杯返したつもりだったのに、そっけなく感じられていたなんて…。
その後、いじめはどんどんエスカレートして、最後にはクラスに私の居場所はなくなった。先生に相談しようにも、人見知りをこじらせた私が相談なんてできるわけがない。
こうして私は遂に学校に行けなくなった。
※※※
「ねぇ。いつまでそうして引きこもっているつもり?」
ガチャっと部屋の扉を開けながらそう声をかけてきたのは姉である絵麻だった。落ちこぼれの私とは違い華やかで社交性があって、学生時代はいつもクラスの人気者だった人だ。
さぞ青春を満喫してきたのであろう彼女に、私の気持ちなど分かるわけがない。私は口もききたくなくて、無視を決め込んだ。
しかし、そこは姉というかまるで気にしていないかのようにずかずかと人の部屋に入ってくると、私の椅子に座って言った。
「悔しくないの、あいつらに人生めちゃくちゃにされて。あいつらのせいにして生き続けるの」
悔しい。すごく悔しい。何より、こうして何もできずに部屋に引きこもっている自分が情けない。
「言っておくけど、原因はあんたにもあるからね。いくら人見知りだからって、それが社会で通用すると思うなよって感じ」
…この姉、顔は物凄くいいのに、中身は結構毒舌なんだよな。人の痛いところをグサッと抉ってくる。
「別に全ての人と仲良くなれとは言わないよ。でもさ、せめて建前上の付き合いくらいはできるようになりなよ。人と話すのに緊張するのは何もあんただけじゃないよ。私だって、初対面の人と話すのは緊張するし、気を遣う」
…そうなんだ。全然、そんな感じしないけど。寧ろ、楽しそうにしてるし。
「嘘だって顔してるわね。噓じゃないわよ。年の離れたおっさんと話したって、楽しいわけないじゃない。世代ネタ持ち込まれたって分かるわけないし。でもね、とりあえず楽しそうにしておくだけで、効果はあんのよ。とりあえず人脈作っておけば、何かあった時に助けてもらえることもあるしね」
うわぁ。なんか知りたくなかったなぁ。あんな楽しそうな笑顔の裏でそんなことを考えているなんて、ちょっと想像したくなかった…。
「別にね、あんたにそこまでの事をやれって言ってんじゃないわよ。たださ、声をかける方の気持も考えてやれって言ってんの」
「声をかける方の気持ち…」
「どうせ、あんた自分のことばっかりで声をかける方の気持ちなんて考えたこともないでしょう?知らない相手に声をかけるのって誰だって勇気いんのよ。それをさ、冷たくあしらわれた側の気持ち分かる?ああ、声をかけたの迷惑だったのかなって少し申し訳ない気持ちになんのよ。それで傷つくの」
…考えたこともなかった。そう言えば私、言われてたな。声をかけてもそっけなく返される。感じ悪いって。私はただ単に声を掛けられたことにパニックになっちゃって、どうしたらいいのか分からなかっただけなんだけど。…でも、向こうがそう捉えるのもしょうがないよね。…。私だって、頑張って声をかけたのに冷たくあしらわれたらへこむもん。下手したら一生トラウマになるくらい落ち込む。
「その顔、少しは分かったみたいね。まぁ、だからって虐めていいわけではないから、彼らも十分悪いんだけど」
そう言うと姉は手に持っていた一枚の紙を私に差し出した。
「とりあえずこれ、やってみれば?人見知りの改善にはちょうどいいと思うけど」
「なにこれ?」
渡された紙には「自分を変えたい人集まれ!現代社会に生きにくさを覚える人募集中!」と書かれている。
「日本政府が社会になじめず引きこもっている人たちを社会復帰させるために作ったバーチャルな世界。名付けてベースゼロ。そこに不登校の学生が通うための学校があるんだけど、それの案内」
バーチャル…聞いたことはあるけど、自分とは無縁の世界だと思っていた。私、ゲームとかやらないし、正直、どんな世界なのか想像がつかない。
「バーチャルな世界なら、自分とは別の違う人間になりきれるから、人と上手くコミュニケーションが取れるって人も多いのよ。現実では目立てなくても、バーチャルの世界なら活躍できるっていう人もいるしね」
確かに偶にニュースとかで見かけるよね。ゲームの大会とかで活躍する引きこもりの人。
「それを利用して作られたのがこのベースゼロなの。まだ試験的運用の段階だからあまり知られていないんだけど。少しずつ協力者を集めて、ベースゼロでの生活を体験してもらっているの」
どうやら姉はこのベースゼロの開発者の一人らしい。何か物凄く大きな仕事を任されているとは聞いていたけど、まさかこんなビックプロジェクトに参加しているとは思いもしなかった。流石としか言いようがない。
「てことで、どう?あんたも私の協力者にならない?一人一人にサポーターもつくから、安心して向こうの生活を送れるわよ」
「さ、サポーター!?」
え、いきなり誰かと一緒に行動するってこと?確かに案内とかしてくれるのはありがたいけど、人見知りの私にそれは流石にきつすぎる。
「大丈夫よ。人間じゃなくて、AIだから」
「AI?」
「そう。見た目も自分で好きなものにカスタマイズできる。動物にもできるわ」
「そうなんだ…」
なら、まだ安心かな。人じゃなくて動物の姿にすれば人見知りは発揮せずにすみそう。
「じゃ、決まりね。手続きはこっちの方でしておくわ」
「え!?」
「なに、嫌なの?」
「嫌じゃないけど…」
そう簡単に決められないっていうか。知らない世界に行くのはちょっと怖いというか…。
「嫌じゃないなら、やってもらうわ。あんた、私が背中おさないといつまでもこうしてぐちぐちしてそうだし。こういうのは多少強引な方がいいのよ」
「…」
姉のごもっともな発言に私は何も言えなかった。こうして私は、社会に生きづらさを感じる人のためのバーチャルな世界、ベースゼロへ飛び込むことになった。