秘策
目の前で倒れている男は、かつて誰もが恐れた存在――
その力は、恐怖その物であった。力の差を思い知らされるだけで、どんなに足掻いてもその差は埋まらない。
だが、今だけは違っていた。誰もが恐れる存在に対して、自分の力だけが圧倒的な優越感を与える。
かつての《皇帝》を圧倒している。その事実が、最も強い者と称された《橘黒》を狙う理由である。
誰もが恐れた存在を自分の掌の上で弄ぶ。その至福のような優越感を噛み締める。
既に、終わっているとも知らずに――
「なぁ、もう終わりか?」
アディスの問い掛けに黒は応えない。それを確認してから、アディスは拳を振り上げる。
意識を失って不防備な黒へとその力を振り下ろす。が、砂埃が舞い上がる中でもハッキリと分かる。
手応えが無かった。砂埃を払えば、そこに黒の姿は無かった。
辺りを見回してもその姿は確認されない。魔力による魔力感知にすら、黒は引っ掛からない。
弱っていた男がそんな芸当できる筈が無い。であれば、言える事は1つだけである。
――弱ったフリをしていた。
「――クソッ!!」
先程までの余裕が消える。姿を隠したと言うならば、その姿を捕捉出来ない訳がない。
これが、一般人や単なる騎士であればまた違っている。が、アディスは《イシュルワ》の皇帝の1人である。
捉えれない訳が無い。いや、捉えれないなどあってはならない。
「何処だッ!! 何処に隠れたッ!!」
周囲の瓦礫や座席を壊す。だが、黒の痕跡一つ見付からない。
それだけ、本当は実力が離れていると言う事を突き付けられている気がしていた。
余計に焦り、怒りを露にするアディスを前に背後の座席でため息を溢した黒に気付いた。
やっと、姿を表した。その事に口角を吊り上げる。そして、一歩一歩確実に間合いを詰める。
後一歩と言う所で、足が止まる。
全身から滝のように汗が噴き出し、手先が震えている事にアディス自身が気付いた。
目の前の男は、以前として魔力がゴミ同然である。
にも関わらず、アディスは目の前の男に《恐怖》を抱いていた。
頬から滴り落ちる汗が、静かに床へと落ちる。
その場から一歩踏み込むだけで済む筈なのに、そこから先があまりにも――遠い。
これほどまで、一歩が重いと思った事は今まで1度も無い。一歩、何て事もないただの一歩が重い――
「どうした? さっきまでの威勢が消えた様に見えるが?」
あの一瞬で何があったと言うのだ。
アディスの脳内には、その疑問が拭い切れない。
単純に魔力が僅かに戻ったなら、目の前の男の余裕の理由はそれで説明ができる。
だが、魔力など回復した素振りも無ければ、未だに減少傾向である。
なのに、この威圧――
何かが起きたのは間違いない。魔力を使わずとも勝てる勝算でも導きだしたのだろうか。
その場から数歩後ろへと一旦退く。
余裕な態度や言葉も、自分の作戦を悟らせない為の嘘の可能性も高い。が、それ以上に今の黒は油断出来ない。
周囲の警戒に集中していた魔力感知を目の前の黒へと集中させる。
「さて、どうしたのもかな」
腕を組んで、座席に深く座る黒――。目の前のアディスなど、敵とすら認識していないその態度にアディスは怒りを覚える。
だが、そこで踏み留まる。
怒りで我を忘れさせる。それこそが、黒の作戦であると見抜いたからだ。
「この私に勝てないと思ってか、ずいぶんと姑息な手を使いますね?」
「……」
「図星、ですか――」
アディスが黒の作戦を見抜いた事で、自然と先程までの警戒心が和らぐ。
黒にとって、自分は以前として脅威である。そこは、変わらない。
だからこそ、黒はアディスが予想すらもしなかった。余裕さを見せ付ける事で、アディスに隙きを作らせる狙いであった。
作戦さえ見抜けば、アディスにとって今の黒は敵ではない。
冷静に確実に対処する。
周囲の警戒を解いて、目の前の男から目を離さずに、油断も警戒も怠らず――
「――やっと、俺を見たな」
「……は?」
思わず足が止まる。
黒の口角が僅かに上がる。余裕な態度もアディスの警戒心を過剰に刺激する為の筈である。
なのに、目の前の男は――笑った。
――ガンッ!!
アディスの背後から聞こえた。
一発の乾いた銃声。
白色の煙を上げる拳銃の銃口が、アディスの背中をしっかりと狙っていた。
そこには、黒が3人を縛っていた糸を片手に巻き付けた――ナドレであった。
ナドレの後ろに糸で繋がった。ロルト、セラの姿も確認できた。
黒の狙いは、初めからアディスの意識を完全に黒へと向ける事であった。
それ故、一度姿を完全に眩ませる。その後に、魔力感知で周囲の警戒を強めた後に自分の姿をわざとらしく晒す。
自然とアディスの思考は、2度と黒を見失わない事へと向く。
そして、黒へと集中した意識の隙きを突いて、姿を現す可能性すら無かったナドレ達にアディスの隙きを突かせる。
「……ッ!! クソ、ガァァァァッ――!!」
ナドレへと肉薄するアディスだが、目の前のナドレからは戦意が感じられない。
その答えは至って簡単であった。
「――よそ見、すんなよ」
座席から立ち上がって、踵に集中させた魔力をアディスの鼻へと叩き込む。
死角から放たれた黒の一撃によって、アディスの意識はその攻撃をもってして完全に途絶える。




