苦痛の果てに《Ⅱ》
そこは、見渡す限りの花畑――
色鮮やか花々が時折吹き抜ける柔らかな風によって、右へ左へと揺れる。
多種多様な季節も開花条件も何もかもを無視して、多くの花が狂い咲く。
そうして美しく咲き乱れた花を前に、この男は静かに立ち止まっていた。
花を愛でる訳ではなく。ただ、目を瞑って、苦しむようにゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込む花達を視界に入れ、ゆっくりとこの光景を受け止めるように空を見上げる。
どこまでも続く青空が、この世界の広大さを語る。
自分のほぼ頭上で、男と花達を照らす太陽が少し眩しく思えた。
――そして、再び目を閉じる。
余計な情報を入れない。そう言った思惑があるように眉間にシワを寄せて、硬く目を瞑る。
背後に気配を感じた。
足音もなく現れ、驚かせる事もなく。ただ一言――
「ねぇ、何してるの?」
美しい花畑の中で、男は1人の女性と出会った。
自身の背後から声を掛けてきて、普通ならば振り向きその問い掛けに答える。
が、彼は――それが出来ない。
「……ごめんな。最後まで、守れなくて」
謝罪――
顔を見る事すら出来ずに、男はただその一言を告げる。
振り向く事も出来ず、一言謝罪を口にしてその場を後にしようとする。
しかし、その場から立ち去ろうとしても男の足は動かない。
きっと、心の片隅で彼女の事を思っているのだろう。
愛した存在、自身の命よりも大切な人――
離れたくない。離したくない。失いたくない――
今も、様々な感情が渦巻いている。
その上で、はっきりと分かる。――彼女は幻覚だ。
この幻想的な空間ですら、幻で心の弱さから自分で創り出した虚像である。
と言う事を頭では理解している。まず、幻覚なのは間違いない。
だが、それでも――心の片隅で思ってしまった。
彼女ならば、また優しく頭を撫でてくれる。優しく包み込んでくれる。
折れそうな自分をもう一度立たせてくれる。
弱さを吐き出して、強さを引き出してくれる。
まるで、太陽の様にすべての道を明るく照らしてくれる。
そんな彼女を求めてしまった――
「ねぇ、何してるの?」
再び同じ質問が続く。
夢であるからか、どんな返答をしても帰ってくる言葉はこの『質問』だけだ。
頭がおかしくなりそうなのを必死に誤魔化し続ける。
一言一句変わらないこの質問に耐え兼ねて、地面に膝をつくのはこれが初めてであった。
何度も何度も『ごめん』を繰り返した。
萎れ、枯れて朽ち果てる花々の中心で、その言葉を繰り返す。
繰り返す度に、その言葉の安さが増していく。
だが、彼にはその言葉しかなかった。言い訳も反論する事も出来ない。
男の心に呼応して、花が色を得るように――逆に失われていく。
一面の花畑が朽ち果てた荒野となって、暖かな太陽も失われる。
先の見えない暗闇のように、不気味な月明かりがその小さくなった背中を照らす。
――ねぇ、何しているの?
声音が僅かに変わった質問に、彼は思わず顔を上げた。
背後に立っていた彼女は、目の前へと移動していた。
その顔は、血で汚れていた。
泥と焼き焦げた顔は、想像通りである。
彼女の瞳が、光を失って真っ黒に淀んで行くのをただ見ていた。
口から、目から、真っ黒の泥を吐き出して荒野を飲み込む。
足元から泥に呑まれ、そのまま闇に引きずり込まれる。
夢の中でも――彼は謝り続けた。現実では、その怒りから自分を決して許さない。
脳裏に焼き付いた彼女の顔が夢の中で幻となって現れ、悪夢となって襲い掛かる。
あの日の景色が何度も何度も甦る。
焦げ臭い。焼け野原の中で、彼女が羽織っていた上着の切れ端を握り締めて、大切な存在を守れなかった現実を突き付けられる。
「……くそ……くそッ、くそッ!!」
夢から覚めて、我に帰る。
そこは洞窟で、周囲に紫色の人形がゆらりゆらりと蠢いている。
そして、小さな声を発していた。
それは、この男の記憶に焼き付いた思い出の中の声であった。
「また、みんなで来ようね」
「ちゃんと、ご飯食べてよね」
「私は、あなたが好きだから」
「また、私の勝ちだね」
人形が言葉を発する事に、男は我慢が出来なかった。耐えきれなかった。
失って初めて、その存在の大きさを知った。
心に空いた喪失感は男にとってこの世界の中心で――全てであった。
「おい……お前らが、未来の声を発するな。俺の前で、未来の笑顔を作るなッ――!!」
頭を抱えて、再びドス黒い怒りが込み上げる。
この世の全てを憎むような、残虐で人道とは大きくかけ離れた強い感情――
その感情に導かれるままに地面を蹴っていた。
何度も何度も同じ事の繰り返しで、進展は一切しない。
この2年もの間、水も食べ物も口にしなずにただ感情のまま暴れていた。
意識を失えば、夢で自分を責めている。
意識を覚ませば、現実で力に振り回される。
大扉の前で、梓はそれを2年も聞いていた。
絶えず生まれる怒りが、心を支配し続ける。
痛々しくも救う事は出来ない。
その怒りを持って、外に出ればどうなるか梓が一番分かっている。
だから、こうして出ない様にここで見ている。
自分を激しく呪いつつ、いつの日か自分を許す。
あの子を信じて、ただ願うことしか出来なかった。
そんな自分が一番許せない。
あの子の力になれない。そんな自分の無力さに、自分の存在意義を自問自答している。
そんな時、1人の少女が梓と大扉の前に現れた。
「……梓様。おはようございます」
「あぁ、おはよう。久しぶりだな碧……。お前の兄は、未だにこの扉に手を付ける素振りすらない。お前の願い空しくな」
「……あの、梓様。私にもう一度チャンスを――」
「――チャンス? この扉の向こう側に1人出向いて、兄を連れてくると言う事か? 理性を失った獣かも知れぬ兄を連れて帰ってくる事の危険さを分かっているの?」
「……はい」
苦虫を噛み潰したような顔の碧に、梓が吐き捨てる。
「……今のお前では、あの兄の前にすら立つ事も叶わない。チャンス以前に、欠片も希望は無い。それは、自分が一番分かっている筈だ。……違うか?」
碧が拳を強く握る。
それを見て、梓は碧から視線を外してしまう。
梓も碧同様にあの男の帰還をこの2年間、強く望んでいる。
だが扉の先に籠ったのは本人の意思であって、本人が自分を許すまで、何人たりとも立ち入る事を許可しないと梓に告げた。
中で、自分を見詰め直すと言い残して――
だが、実際の所は、ただ誰にも迷惑をかけずに暴れる為だけで、自分を許す事などあるはずもない。
この2年、この時間がそれを証明した。
あの大規模な戦いで、多くの者を失った。
大切な妹と仲間達、自分の命よりも大切な――愛する人。
《天城未来》を目の前で失ったのだから――




