八咫烏の女《Ⅱ》
「――動いた。……訳じゃないが、反応があるな」
星の水女学院の寮の1室を未来と借りている。
隣のベッドでは、未来がスースーと寝息を立てて眠っている。
その顔を少し覗き込んでから、緑のモコモコっとした生地のパーカーを羽織る。
大規模な結界で、外の気温がそこまで反映されない土地であっても夜は少し冷える。
流石は、北欧だ――と、小声で呟いてから部屋を後にする。
真夜中の為、誰一人歩く気配は無い。そんな静かな女子寮の廊下を黒は1人歩く。
日神、聖王からの信頼が無ければ――男が、女子寮で生活する事などあり得る筈はない。
日神が黒に対して全幅の信頼を寄せており、全生徒からの同意や厳密なルールを課して初めて実現出来ている。
星の水の敷地内であれば、常に黒の居場所は教師、日神、未来によって探知されている。
さらに、寮内で女子の部屋へと近付こうものなら未来の魔物による必中防御不可な一撃が内部から突き刺さる術式が刻まれている。
「――が、発動しない」
以前のような違和感とは少し違うものの、確実に黒に違和感を与えた。
黒の感知の精度が鈍った。さらに、日神、未来の術式が弱まった。
――この2点を以て、黒はリスクを承知で動いた。
勢い良くその場から反転して、長い廊下を走る。
無音の足さばきで、足音は消えている。その状態で寮の隅から隅まで異常が無いかを確認する。
確認し終えて、ガタガタと遠くから聞こえる窓が開く些細な物音を感じ取る。
暗視ゴーグルでも無ければ視認できない暗がりの中で、女子寮へと侵入した複数人の不届き者――
暗視ゴーグルの電源を入れ、物音を立てずに忍び足でゆっくりと進む侵入者を前に黒の技術が披露される。
披露されるとは言っても、相手は誰一人気付く事も声も挙げる事なく消される。
1人、また1人――そうして数が減って行く。背後、両サイドの仲間が消える。
その事に気付いて、声を出すよりも先に黒が暗がりへと引き込む。
侵入者が、ゆっくりと階段を登って行く。階段の途中で足を止めて仲間へと次の動きに対する合図を送る
そのまま階段を登りきって、正面を警戒するように後ろに居るはずの仲間へもハンドサインを送る。
無論、黒にはそのハンドサインが何を意味するかは知らない――ので、声を掛けるしかない。
「うぅん……。今のは、何のサインかな?」
――背後から黒の声に驚き、上へと飛び退く相手の胸ぐらを掴んでハンドサイン中に開けておいた窓へと投げ入れる。
体を宙に投げ出された相手へと目掛けて、黒の一撃が入る。
骨、肉、神経が悲鳴を挙げる。
手に持った銃が粉々に砕けそのまま内蔵を捻り潰すほどに強烈な黒の殴打――
口から溢れる絶叫が響く事なく。黒の手が男の口を塞いでそのまま首をへし折って瞬時に沈黙させる。
粉々に砕けた装備の破片を落下の最中に全て拾い集め、道中で消した不届き者の遺体を回収する。
「にしても、俺の感知をすり抜けるとはな……やるじゃねーか」
「……」
黒の視線の先には、満月をバックに屋上から黒を見上げる一人の姿があった。
全身を黒一色の闇に紛れる衣服を纏って、短い黒髪が月明かりで艷やかに光る。
両手の遺体が鴉の羽根となって消えて、黒の手に残ったのは鳥類の羽根。
中庭の地面を蹴って、屋上のフェンスに腰を掛ける。
眼の前の黒衣の者は、一瞬で隣へと接近した黒の動きを目で追った。
そして、まるで来るのが分かっていた様に余裕さを持って、月を見上げている。
「――触媒アリの式神か? 今の」
「……」
「話をするつもりは、ない――と? いつから、そんなにつれなくなったんだよ」
「……」
「……あぁ、分かったよ。じゃ、寝るからな」
「……」
黒衣の者は、そうして沈黙のまま黒が屋上から去って行くのを黙って見ていた。
そして、屋上の扉が施錠されている事に黒が気付いて、来た道を戻って屋上から飛び降りる為にフェンスを乗り越えようとした所で――口を開いた。
「――どう、妹は?」
「……強くなるな。昔の、お前とは大違いだ」
「……そう、それなら良かった。きっと、私の復讐とか言ってるんでしょ?」
「あぁ、大好きな姉を昏睡状態にした奴を狙ってるそうだ。なぁ、顔を出して来いよ。私が、アナタの姉を昏睡状態にしましたって……やっぱ、精巧に作り過ぎたんだよ。あの身代わりの術」
月が傾き、雲から差し込む月光がその者の姿を照らす。
顔を隠していた布切れを取って、その女性は月明かりの下で黒へと素顔を晒した。
黒衣を纏って、月明かりに照らされた優艶な素顔が見えた。
顔を隠していた布切れ――その下に隠れていた赤い口紅は、女性としての最後の抵抗だろう。
化粧が許されない身の上でありながらも、布切れで隠れる下でも少しは乙女らしくしたかったのだろう。
「布切れで隠れるのに、口紅か?」
「ダメ? 乙女なら、例え隠れていても細部まで――可愛くありたいんだよ?」
「なるほど、まぁ、確かに――可愛いな」
「……それ、未来以外の子にも言ってるでしょ? 未来、嫉妬するよ?」
フェンスに腰を掛けて、足を組む。
月明かりがあるから分かるが、月が雲に隠れれば――その姿は闇に消える。
唯一、赤色の口紅が薄っすらと見えるかもしれない。それぐらい、彼女の気配遮断能力は高い。
あぁ、彼女がそうか――と、黒は納得させる。
暁が敵わないと言った意味が分かる。眼の前の相手は、敵でありながら敵ではない。
侵入者を装って現れて、魔法の効力を激減させ、数日間の違和感を黒に与えた人物――
その気になれば、生徒に変装して背後から気付かれずに黒を殺せた。
違和感こそあれど、感知の外だと誤認させて油断した黒の背中に近付く。
彼女なら、可能だろう。黒が、式神を相手にしてようやく感知に彼女が反応した。
精度、感知のレベルが下がっただけでなく。この場に点在した違和感が消えた事で、残る微小な違和感をより明確に感じ取れるようになった。
式神の魔力残滓を辿って、やっと分かった。それだけ、気配の消し方に関しては彼女の次元は違う。
隠密に関して、2人の力量には天と地の差ほど存在した。
「――八咫烏だったか?」
「昔の名前……今は、組織の名前になった」
「大分、出世したか?」
「……私は、運が良かっただけだよ。2年前の大規模作戦に参加してなかったからね。流石に、驚いた」
「だろうな……」
月が雲に隠れ、呉羽の姿が黒の目から消える。
魔力は感じ取れず、完全に消えたと思わされる。
だが、微かではあるが靴底の音が聞こえる。カツカツ――と、コンクリートを蹴る音。
それでも、明確な位置は把握出来ない。
その上、極度の緊張状態である戦場であれば、彼女の強さはより明確な脅威となる。
戦場であれば焦って、周囲一帯を魔法や力で更地にする。
生じた砂塵の中で、足音は破壊の影響で曖昧となる。ただでさえ認識し辛い物をさらに認識出来なくなる。
姿の見えない相手によって、精神的に追い詰める八咫烏のやり方は、騎士とは違う。
――暗殺者のやり口である。
「大事な妹をちゃんと守れるか……俺を試したのか?」
「そう……かな? でも、きっと……ただ話をしたかっただけなのかも――」
闇の中から姿を表した彼女の手には、太刀が握られている。
黒色の鞘に黒色の柄、シンプルで飾り気は一切ない。実用的で、ただ実戦で使う為の――1振りだ。
「外と遮断された空間は作れる?」
「別で結界を使ってるから、使えない……。が、領域術は使えるぞ?」
「それじゃ、意味無い。 内と外の情報が遮断されている場所が欲しかったの……領域術はルールを強制する空間でしょ?」
「何がしたいのか、ちょっと……分かったぞ」
呉羽が鞘から太刀を抜いて、その刃先を黒へと突き付ける。
やはり、立場や目的は違えどもその本質は変わらない。
誰でもない誰かを守る――騎士。
自国、秩序の為に戦う――暗殺者。
進む道も辿り着く終点、ゴールこそ違うがその本質は変えれない。
どう取り繕っても、彼女も同じである。黒への興味は尽きない。
本気ではなくとも、少しの時間だけ手合わせしたい。
本物の戦場の様に、相手の視線や一挙手一投足で震え上がり。
喉元に迫るであろう互いの刃を持ってして、その力を感じ取る。
互いの命に届きうる。
その刃と刃で火花を散らして、肌を突き刺す刺激的な魔力の渦の中で――戦いたい。
「私も、シャウと同じで根は王の世代なんだね。闇に長く生きてても、心を殺しても――」
「心を殺すな……とは、俺は言えない。言える立場じゃない。でも、時々でいいから、本当の自分と向き合ってくれよ?」
足下の影から銀の太刀を2振り、呉羽の仕掛けで低下した黒竜の力でも物の出し入れ程度は可能であった。
屋上の中央で、2人は構える。
結界で守られていないので、少しでも魔力が漏れれば他国の密偵や他の誰かに気付かれる。
それでも、暗殺者としてのキャリアに傷が残っても呉羽は黒と刃を交えたかった。
2年よりも前から暗殺者として活動して、王の世代として共に肩を並べた時間は短くとも――黒は、上を目指す為の1つの指標である。
――今の私は、どこまで行ける。
心臓が高鳴る。
呉羽の握る太刀が高揚感で震える。
互いに、踏み込む足に力が入る。
相手の間合いに飛び込むように重心が前のめりに動く。
刹那、勝負は一瞬で終わる。
――と、思われた。
「――結界、私が用意しようか?」
屋上には、2人だけである。
が、施錠されていた屋上の扉を開けて、1人の見物人が現れた。
それは、可愛らしいクマのパジャマ姿の日神だった。
「可愛らしい、クマのパジャマ……お子様か?」
「バカ、黒――」
小声で、黒が笑った事を指摘する。――が、呉羽の目には日神の顔色が曇ったのを察する。
呉羽は、一歩遅かった。
クマのパジャマを黒は笑って、バカにした。
呉羽の忠告も聞かずに――笑った
「……このパジャマ、お気に入りなのよ。クマって、かわいいでしょ?」
そんな笑ってない笑顔の日神は、恐ろしく怖かった。




