8.光の関門
灰の荒野を越え。
砂丘を越え。
また荒野を越えることを、星の数ほど繰り返してきたことだろう。
灰の粒ほどの戦闘もこなし、生けるものはおろか。
死せるものでさえ風の前の塵と化す世界で、1体の亡者が延々と地上を歩き続けていた。
いつ折れるとも分からない瘦せた細足で1歩、また1歩と。
重々しく前に踏み出していくが、もし立ち止まれば荒野に生えた枯れ木にすら見えたろう。
しかしその亡者が――ジンが。
歩みを止めずに絶壁とも思える砂丘を、無限とも思える時間を使って登頂を果たした時。
これまでにない強風が全身を吹きつけ、直後に視界を覆う光の滝が轟々と眼前に広がった。
あまりの眩しさに一瞬思考が真っ白になるほどだったが、なぜだろうか。
永遠に着かないと思えた目的地が目の前にあるのに、現実味が全く感じられない。
目標を達成するというのは、案外そういうものなのだろうと自分に言い聞かせて程なく。
やがて景色に見飽きて下を向けば、もはや溜息を零すのも煩わしい。
颯爽と坂道を滑り降りていくが、延々と登り続けた時間を消化するのは、並大抵の行程ではなかった。
立ち止まって休憩できる“平面”も無く、1度でも転がれば最後。
決して止まることなく、死ぬまで麓に落ち続けることだろう。
それでも登りより遥かに早い移動速度に加え、雪面を滑る要領で進んでいるからだろう。
高度はみるみる落ちていき、踵をソリ代わりに使いながら、速度が出過ぎないよう弧を描きながら進んでいく。
背後には巨大な羽根と見紛う粉塵が巻き起こるが、もちろん空を飛ぶことなど夢のまた夢。
せいぜい高いところから低いところへ、地べたを滑りながら降下することしかできない。
長い時間の中で時折そんな思考が浮かぶことはあったが、なるべく無心を貫いたからか。
ふいに壁が眼前に差し迫ったかと思えば、単純に地べたに辿り着いただけ。
勢いや姿勢をものともせずに跳び上がると、僅かに砂埃をあげるだけで着地することができた。
そのままゆっくり体を起こせば、光の柱まで視界を遮るものは何もない。
距離がまだあるとはいえ、前方に見える確かな目的地の存在に、やっと溜息を零すことができた。
「…思いのほか眩しくねえんだな。むしろ暗ぇ」
下山の疲労を払うように体を揺らすと、訝し気に光の柱を睨みつけた。
頭上からキラキラと注ぐ光に反して、その下はこれまで歩いてきた荒野とさして風景は変わらない。
違いがあるとすれば風が轟々と吹きつけ、山に匹敵する巨大な立石がいくつも佇んでいるのが見えること。
以前訪れた荒廃都市とは雲泥の差があり、まるで積み木を放置したような景色が広がっている。
目的地としては些か風情に欠けるが、光がそこへ降り注いでいることもまた事実。
兎にも角にも移動を再開しようとするも、ふと踏み出した足を止めて考える素振りを見せた。
それから脇に抱えていたモノを無造作に放れば、小さなうめき声が足元で響いた。
体の前面をしばし埋めていた相手は程なく顔を上げるが、ジンを睨むようなことはしない。
むしろ口に入った灰が不快で、何度も咳き込む羽目になっていた。
「…ケホッコホ、わざわざ投げ落とさなくても、ケホッ……いいじゃないですか。ゴホッゴホッ」
「悪ぃ、腕が疲れて思わず手放しちまった」
「その割には不自然な浮遊感があったんですが…そもそもお互いの長所を活かそうという話になって、戦闘はボクが。移動はジンさんにお任せするってことになったんですよ?もう少し丁重に扱ってくださいっ」
「その戦闘ってのも、ここんとこ無かったろうがよ。やること無ぇからって悠長に寝てんなや」
「魔力の温存にはそれが一番効果的で…あっ」
苦言を優先するあまり時間はかかったが、ようやくロットが吹きつける風に気付いたらしい。
言葉を切って視線を前方に移せば、無言で光の柱を見つめだした。
正気を失いかねない時間を浪費して辿り着いた目的地に、最初は言葉を失い。
次に感情を失うも、一巡した思考が徐々に浸透したのだろう。
「…ずいぶん陳腐な造りなんですね」
やがてロットが感想を絞りだすも、残念ながらジンもその言葉に同意せざるを得なかった。
しかし杖を支えに立ち上がったロットが歩き出せば、それ以上互いに言葉を交わすことはない。
目的地が目前に迫っているとはいえ、それがゴールか否かは調べてみるまで分からない。
もしも彼らの期待に添えるもので無いのなら、とても悠長に会話をする気にはなれなかった。
おかげで灰を踏む音。
風の音。
いま聞こえているもの1つ1つが耳を掠め、気を紛らわせようと周囲の景色を観察した。
もっとも視界に入るのは、そこら中に転がる巨石と光の柱だけ。
ただそのどちらもが異様に映ったのは、まず前者が明らかに加工されているものだったからだろう。
丸みを帯びた表面は、とても風と粉塵に削られて自然に出来たものとは思えない。
なかには垂直に立つ2本の岩の上に、別の岩が横に重ねられた門の形をしたものまである。
原始的な造りとはいえ、明らかに人為的な形跡は見て取れる。
しかし山ほどの大きさの岩を、通常の人間たちが扱えるはずはない。
「…目的はなんであれ、恐らく魔法を使って建てられたのでしょう。それにあの光の柱。空から降り注いでいるものとばかり思っていましたが、むしろ上昇していますね…」
背後の仲間へ語りかけるでもなく、ブツブツと考察を始めたロットに「また始まった」と。
溜息を押し殺したジンもまた光の柱を見つめれば、青白い光の筋が上に向かっているのが確認できる。
仕組みは分からないが、灰の荒野から抜け出せそうな雰囲気はそこはかとなく漂っていた。
そして恐らくそれが、いまのロットの気分を高揚させてやまないのだろう。
自分を落ち着けるために、口数が増えているのが良い証拠。
下手に口を挟めば、憶測だらけの会話に引きずり込まれてしまう。
もっともロットに肩入れするわけではないが、希望を見出してしまう気持ちは分からないでもない。
最後の山を越える前から敵との戦闘が無くなり、あるいは。
――もしかすれば。
それでも万が一に備えて考えないようにしていると、やがて巨石が乱立する区域に踏み込んでいた。
時折道を塞ぐように倒れた石柱は大きく回り込み、やっと先端を回り込んだところで見えたのは、また別の巨大な石柱。
すでに何度もぶち当たっている壁に、ため息を零したロットが足を止めた。
「……この巨石、壊せると思いますか?ココからでは見えませんが、もしこの先も石柱が邪魔になるようなら、その度に長々と歩くのも効率が悪いですし」
「いまさら急ぐ必要があるわけでも無ぇんだ。しばらく戦闘してねぇからって暴れたがんなや」
「人を狂戦士みたいに言わないでください。ボクはただ、この程度の岩なら簡単に穴を開けられるはずですから、その方がより早く…」
「わかったわかった、最短距離で行こうってんだろ。後ろは見ててやるから試してみな」
時間なら無限にある。
それに灰の荒野から一刻も早く出られるなら、ロットを止める理由もない。
くるっと背中を向けて本人の好きにさせるが、まるで女の癇癪に付き合うような態度に、一瞬ジンの背中に冷ややかな視線が突き刺さった。
しかしすぐに意識が石柱に集中されると、杖先から火の粉が舞い始める。
それらが急速に杖の前で集まるや、程なく熱線となって岩壁に照射された。
途端に轟音と共に一帯が眩しく光り、火花が溶接するかの如き勢いで散っていく。
相応に黒煙がもくもくと立ち昇るも、やがて熱気や騒音が落ち着いた頃だろう。
視界も晴れれば自然とジンも成果に注意を向けたが、そこには亀裂どころか焦げ跡すら無い。
その状況にロットが眉をしかめるや、踵を返して石柱から離れていった。
途中でジンの腕を取って共に後ろへ下がらせ、程なく立ち止まると再び杖を構えながら振り返った。
「<ファイアボール>!!」
そして間髪入れずに業火球を打ち込むが、威力に反して結果は一向に変わらない。
石柱からは黒煙が上がるだけで、やはり傷1つとしてついていなかった。
「…ま、試しても損は無かったわな」
「ボクのプライドは傷つきましたけどね。ひとまず回り込むほかに選択肢が無いことは分かりましたけど、こんな頑丈な物が一体どうやったら倒れ…」
空振りに終わった一撃に肩を落とし、移動を再開しようとした矢先。
突如足元が震え出せば、もしや立石が倒れてくるのではと。
咄嗟に頭上を警戒して見上げた直後に、素早くロットを抱えたジンが背後へ飛びずさった。
それまで進んできた道を惜しげもなく。
かつ遥かに早い速度で戻っていくも、巨石が鎮座する空間を抜けてなお地震は止まない。
むしろ遠くで灰が大きく盛り上がっていき、もっとも膨らんだ中央部には赤く光る双眸が、灯台の明かりが如く照りだした。
それからは筋骨隆々の腕。
そして長い髪と髭。
どんどん全身を露わにした相手は、これまでの亡者と同様に灰からのっそり這い出てきた。
しかしその体躯たるや、そこらの巨石に届きそうなほど大きい。
生前を通しても見た事がない敵とその巨体に、目を合わせるのも一苦労だった。
「陳腐な造り、って言ったのが気に障ったんじゃねえのか。頭下げたところで許される雰囲気でもないが」
「戯言で傷つくほど繊細な相手にも見えませんけどね……ところでジンさんは…」
「ジン、でいい。ただでさえテメェの話は長いってのに、こんな状況でそれ以上会話を伸ばされてたまるか」
「…ジンは、あれとの戦闘経験はありますか?もしよろしければ参考までに伺いたいのですが」
「あるわけねえだろ」
「でしょうね」
溜息を零しながら肩を落とした刹那、2人を瞬く間に大きな影が覆った。
再びロットを担いだジンが逃亡すれば、それまで立っていた場所には巨大な掌が叩きつけられる。
その衝撃は凶悪な暴風をも巻き起こし、砂嵐で天と地の区別さえつかなくなるが、幸いジンが着地先を見誤ることはない。
さらに幸先の良いことに、粉塵で2人の姿を見失ったのか。
見上げれば巨人の赤い瞳は緩慢に辺りへと、生気もなく向けられていた。
「ケホッコホ…あんなのがもし英雄に成り損なったのなら、もう世界を救うなんて無理じゃないですかね……そもそもこれが最後の関門と言うんでなければ、これまでの旅路も割に合いませんよ…」
「…いつも思うんだが、独り言でも敬語使うんだな。テメェは」
新たな強敵に苦虫を嚙み潰すように唸ると、ふいに傍からジンの声が聞こえてきた。
体を捻って見上げれば、いまだロットを抱えたまま佇んでおり、ふと目が合うと同時に地面へ降ろされた。
「…あれ。どうしましょうか」
「さてな。だがこのまま発見されようもんなら、次はまとめてお陀仏だぜ」
「下手に動いた方が見つかる危険性も高まります。何か案を出してからでも移動するのは遅くありませんよ」
「勝つまで死に続けるのはどうだ」
「却下です……1つ思いついたので、代わりにボクの案を試してみるのはいかがですか?」
「…試す分には損もねえわな。言ってみろ」
諦め混じりの声音に思わず笑いかけたが、戦闘中である事を忘れたわけではない。
すぐさま思考を切り替えれば、手短に作戦会議を決行した。