10.死に戻り
耳元を何度も風音が掠め、ふと意識が覚醒しても眠気に抗えない。
むしろ風そのものが光の柱から吹き付けられているものなら、それは脱出失敗の兆候。
体の重さも相まって、再び眠りに就こうとしたのも束の間。
ガバッと途端に起き上がれば、灰の世界では感じなかった睡眠欲が。
そして何よりも視界一杯に広がった土を始め、草木や青い空がロットを覚醒へと導いた。
「…戻って、これ…た……ジン?」
遠くに見える森と小高い山々に胸が高鳴るも、相棒の姿がどうしても見当たらない。
振り返れば覚えるのある石造りの門はあるが、最後に見た物とは雲泥の差がある程小さい。
それでも見上げるだけの大きさは有しており、他にも出来損ないの如く石柱が複数転がっている。
それでいて円を組んだような配列に、コクリと首を傾げた時だった。
「やっと起きたか。ずいぶん時間が掛かったな」
背後から聞こえた声に飛び上がりかけたが、すぐに相手が把握できたからだろう。
ホッとしてから気難しい顔を浮かべれば、睨むようにしてジンへ振り返った。
おかげで1人では無かったことを喜ぶ反面、黒いミイラ体のままだった彼の姿に、少なからず落胆していたことは誤魔化せたかもしれない。
「…後ろから急に声をかけないでください。危ないじゃないですか」
「何がどう危ないってんだよ」
「マナーの問題です。マナーの……それよりボクたち。元に…」
「まぁ戻ってねえわな…少なくとも体の方は」
ぶっきらぼうな一言に胸を刺されたような痛みが走るも、恐らく顔に出ていたのだろう。
すぐにジンが言葉をつけ足せば、一番重要だった部分に再び希望が湧いてきた。
しかし俯いた際に見えた左手を始めとする、赤紫色の左半身。
灰の荒野を彷徨ったその証に溜息を零すと、振り払うように周囲をキョロキョロ見回した。
「何か見つけたのであれば報告をお願いします」
「ナニか、って言われてもな。見ての通りの景色が向こうしばらくは広がってやがったし、人里の気配も無かった。元の世界に戻れたかは何とも言えねえが、少なくとも俺たち以外の死人は歩いてねえぜ」
「そうですか……でもどうせならその時にボクも起こしてほしかったですね。2人で見て回れたなら、また別の発見があったかもしれませんし」
「蹴り起こしても動かないんで放っといたんだよ。言っとくが声は何度もかけたからな」
「……そこは辛抱強くソッと起こしてくださいよ」
呆れたように溜息を零せば、少なくとも脇腹に走る痛みの謎は解けた。
しかし彼らが本当に荒野を脱出できたのか。
それとも別の異空間へ飛ばされただけなのか。
根本的な問題はまだ解決しておらず、どちらとも判別できる明確な情報も無い。
それでも空には太陽が浮かび、風に乗って雲がゆっくり流れている。
踏みしめれば地面の感触を味わえ、穏やかな空気が脱出の成果を感じさせてやまなかった。
「とにかく移動してみましょう。足を止めていては、始まるものも始まりません」
「そいつには賛成だが、どこに向かって歩くつもりだ?今度は太陽でも目指してみるか?」
「寝惚けたことを言ってると置いていきますよ…それッ!」
ロットが垂直に立てた杖を離せば、乾いた音を立てながら地面を転がった。
そして杖先が倒れた方向を見つめると、すかさず拾い直して道なき道を歩き出す。
そのまま杖が指し示した方角へ黙々と進んでいたが、程なく違和感に気付いたのだろう。
くるっと振り返れば、杖を転がした場所から1歩も動いていないジンと目が合った。
「…本気か?」
「当たり前じゃないですか。運も実力の内――つまり実力で荒野から抜け出せたボクたちは、総合的に運も良いはずなんです」
「……それはテメェの経験からくる確かな方法ってやつなのか?」
「少なくともボクの運気はゼロも当然ですので、ジン頼りなのが正直なところです。だから頑張ってくださいね?……あっ」
屈託のない笑みを浮かべ、行程の責任を丸投げしていた矢先だった。
ふいにロットが隠れようもない杖の後ろでモジモジし、口を開こうとすれば閉じることを繰り返した。
気まずそうに何度も視線をジンに投げかけるも、やがて決心がついたのか。
あえて明後日の方向を見つめながら、恐る恐る言葉を紡いだ。
「ジンはまだ…その……ついてたり、しますか?」
「……あぁ。オレは手遅れだがテメェのムスコは無事だ。安心しろ」
「は?……ッッ違います!英雄の印のことに決まってるじゃないですか!!どこ見てんですか、もぅッ」
恥ずかしがるロットに気を遣ったつもりだったのだろうが、むしろ逆効果。
火が噴き出そうな少年を宥めながらも、まずは自分の肩を。
それからロットの太ももを一瞥するが、そこにはしっかり英雄の刻印が残っていた。
いまだ彼らは英雄の資格を有しているのか。
はたまた“消し忘れ”か。
どちらとも言えない只中、ふいにロットが掌から炎を出現させた。
「魔術は問題なく使えるみたいですね。ジンの方はどうですか?」
「死ぬ前より体が軽いな」
「そうですか…ちなみにその身軽さが女神様の祝福、というわけではありませんよね?ボクのは御覧の通り、火術がソレに該当するのですが…」
「身軽なだけ…ねぇ」
そう告げるや否や、瞬時にジンは姿を消した。
驚くロットの背中が直後に小突かれ、背後で堂々と構える彼にそれ以上かける言葉は無い。
ひとまず納得したところで移動を再開するが、胸を張っていたのも最初だけ。
グッと上げていた顔も徐々に俯き始め、しまいには不審者の如くキョロキョロ見回し出した。
「なぁにビビってやがんだ。今のところ死人どもの襲撃があるわけでもねぇし、さっきみたいに堂々と歩いてろっての」
「……もしも…もしもですよ?ボクたちが元の世界に戻っているのだとしたら、いま丸裸で歩いているなー…と思ってしまいまして」
「いまさら羞恥心引っ提げてどうすんだ?脱出する時には<名前の無い技>!とか叫んでたくせによ」
「まっ、魔術は感情と集中力で相対的に威力が決まるデリケートなものなんです!だから技名をつける事で、より性能を高めることが出来て……これでも恥ずかしいのを我慢してるんですよっ…」
本当に恥ずかしいのか、再びロットの変色していない方の体が赤みを差し始める。
しかし“モチベーション管理”に関して、とやかくジンが問うつもりは無いのだろう。
羞恥心の話題はやめることにしたが、それでも文句はゼロに等しいわけではなかった。
「大体空を飛べたってぇなら、始めから飛んでろって話だよ。おかげでこちとら何度も死にかけたんだぞ?」
「あれは高く飛べないうえに、誤爆する危険性すらあったんです。それに万が一失敗した場合は、相手に対策されてしまう恐れもありましたから、最初で最後の手段にしたかったんですよっ」
灰の荒野での戦術に対し、片や不満を。
片や弁明を。
かと思えば攻守は逆転し、尽きない話題を続けながら森を抜け、岩のような山々を越え。
そして再び鬱蒼とした森に、遅々とした足取りで分け入った時だった。
「…聞き違い…じゃあねぇよな」
「……はぁ、はぁ……ど、どうかした…んです、か?」
「とっとと息を整えろ。テメェにも聞こえんなら、オレの幻聴じゃねぇってことだ」
息を切らしたロットが木にもたれ、喉を鳴らしながらジンを見つめていたのも束の間。
呼吸を整えつつ顔を上げると、ふいに目をカッと見開いた。
「…鳥……鳥のさえずり、ですか?」
「それとまだ遠いが、恐らく川も流れてる…“あの場所”にそんなもん無かったよな」
「行きましょう!!」
言い終わると同時にロットが飛び出し、疲労を忘れたように茂みを突っ切っていく。
そんな彼に呆れながらもジンはあとを追うが、草木や風切り音の合間に“異音”は聞こえてくる。
近付く度にそれもより明瞭になり、やがて頭上を覆っていた森が消えた時。
夕日が照らし出したのは、小高い丘から流れる小さな滝。
そこから川が生まれ、対岸には花。
木の上には鳥が鳴き、水辺には鹿の群れが遠巻きにジンたちを見つめていた。
一瞬でも元の世界に戻れた錯覚に陥りかけたが、まだ喜ぶには早すぎる。
確信を得るためにも川を辿ろうとするも、ふいに背後で何かが崩れる音が聞こえた。
振り返ればロットがへたり込み、足に力が入らないのか。
その場でにへらっと笑いながら、辛うじて杖に掴まっていた。
「…あ、あはははは……なんか、元の世界に戻って来れたのかもって思ったら急に力が抜けてしまって…まだ決まったわけでもないのに、御見苦しいところを…」
バツが悪そうにポツリと零し、杖を支えに立ち上がろうとしても一向に成果はない。
その様子をジンも黙って眺めていたが、やがて痺れを切らしたのだろう。
おもむろにロットの首根っこを掴めば、近くの木のうろへグッと押し込んだ。
「今日はココで1泊する」
「…えっ?ま、まだ行けますよ!もう少し時間をくださ…っ」
「もう日も暮れてんだろ。夜に動き回る理由もねえし、鹿がたむろしてるって事は危険もねえはずだ」
なおも起き上がろうとするロットを押さえるや、返事も待たずにジンは1人で偵察に行ってしまった。
あとに残されたのは川の音だけだったが、大人しく待機をしていたのも数秒だけ。
程なく這いながら木の枝を集めれば、指先から弾いた火の粉が瞬く間に焚火を作り出した。
パチパチと爆ぜる音は黄昏の静けさを彩り、膝を抱えれば改めて安心感を覚えたのも束の間。
ふと思い立って川まで這って行くと、恐る恐る水面を覗き込んだ。
するとそこには枯れ葉色の髪に、瞳の色が左右で違う少年が。
それも変色した半身側の目が、眠たげに瞼を降ろして、ロットのことを見つめ返していた。
回復術で治るのか疑問を覚えるも、“抜け駆け”して自分の業だけ払拭するつもりはない。
溜息をついてゆっくり立ち上がり、焚火の傍に屈みこんだ刹那。
突如風に火が煽られるや、明かりの向こう側に黒い影が佇んでいた。
“彼”の存在に慣れていなければ、光に寄せられた幽霊だと本気で信じたかもしれない。
「ずいぶん遅かったですね…って狩りに行ってたんですか?」
「“コッチ”に来てから気付いたんだが、どうも腹が地味に減るらしい…テメェの方はどうだ」
落ち窪んだ眼窩で一瞥されるが、言われてみれば確かに空腹感は否めない。
疲労で余裕が無かったせいで、気付くのが遅れたのだろう。
また1歩真実に近付いた証にも思えたが、おかげで今や思考を占めるのは食欲ただ一択。
何よりもジンが引っ提げる鳥に――血の滴るような生肉にゴクリと喉を鳴らし、サッと枝を突き刺せば火でゆっくり炙っていく。
滴る脂は焚火に照らされ、香ばしい匂いは否応なくロットの胃を刺激した。
だからこそ焼き加減にも構わず、つい手に取ってしまったのかもしれない。
そのままガブリと嚙みついたが、想定通り中は生焼け。
それでも十分な味わいに頬張っていけば、あっという間に骨だけが手元に残った。
「ん~~っ…美味しかったですぅ……あれ、ジンは食べないんですか?」
至福の一時に蕩けていたものの、ふと相棒が肉を放置している事に気付いた。
今頃はこんがり焼けているだろうに、ジンは手を出す素振りすら見せない。
「そういうテメェこそ“デザート”に手はつけねえのか?」
そしてお返しとばかりに反論されれば、脇に置かれた果物に視線を落とした。
食後には甘い物を取るのが王道だと言うのに、不思議と食べたい気分にはなれない。
むしろ肉への欲求が強まるばかりで、そんな想いが伝わってしまったのだろう。
ようやく手を伸ばしたジンが、そのまま自身の分をロットに渡してきた。
「……どうも」
断る理由もなく、お礼にロットも果物を渡せば、互いに黙って手元の食料を消費していく。
“楽しい”夕餉の時間もやがて終わり、あとは明日に備えて眠るだけ。
その際に交代で見張りをする事を提案したが、不要だと告げるジンに大人しく従った。
それから横になって寝ようとするも、“半死人”ゆえの臨死体験からだろう。
体を地面に預ける気になれず、木のうろに背中を預けた。
同じくジンも横になる事はないが、彼は立ったまま岩に寄り掛かり、到底真似できない器用さに感心していた矢先だった。
「――…なんでジンは諦めなかったんですか?」
おやすみなさい、と言おうとしていたのかもしれない。
しかし声に実際出た言葉は全く別のもので、思わず自分でも驚いてしまった。
当然ジンも訝し気な眼差しを返してくるも、ロットが色違いの瞳を逸らす事は無かった。
「……あんなトコにずっといられるかよ。安らかに死ぬならもっと…」
「なんで諦めなかったんですか?」
再び語気を強めて尋ねれば、自然と体も前に傾く。
灰の荒野では全身が変色した英雄ですら正気を失い、巨人との絶望的な戦闘を経験してなお、ジンの心が折れる様子は見られなかった。
ミイラの姿になってなお自我を保つ彼に。
そしてジンに出会う直前に正気を失いかけ、足に受けた一撃で我に返ったロットからすれば、それこそ心中で渦巻くもっとも大きな謎。
その答えを聞くまでは決して動かないという姿勢に、やがてジンの方が折れたのだろう。
溜息を零すように肩を落とすと、落ち窪んだ眼窩を気怠そうに逸らした。
「…オレにはもともと英雄としてのプライドも、人としての生き様も、何1つ誇れるものは持ち合わせちゃいなかった。だって言うのに諦めるな、まだやれるだの、薄ら寒いセリフばっか吐く奴がいてよ。今でもだるくなる度にそいつの声が響きやがるんだ……本当、タチが悪いわな」
反吐を吐くように告げるや、それ以上彼が言葉を紡ぐことはない。
就寝を促す合図に渋々木へ寄り掛かるが、覚醒していた意識が不思議と眠気を覚え始めた。
焚火の子守歌と相まってこくこく船を漕げば、口元まで緩んでしまったのだろう。
「…ボクも、そんな知り合いが……ほしかったなぁ…」
そう呟くロットが微笑むように俯けば、糸が切れたように深い眠りについた。
その様子をジンは見守っていたが、直後に寝息が聞こえていなければ、彼の最期の言葉のようにすら思えたろう。
それからもロットをしばらく観察していたが、やがて集中力が切れたのか。
ようやくジンの警戒も疎かになれば、ゆっくりと視界が霞むがままに身を委ねた。