第2話 実家に戻る
王都を発ったアリシアは五日後に馬車で聖騎士伯家の居城であるハルティア城にたどりついた。
通常ならハルティア城に着くまで馬車を使えば、一日100キーロほど先まで進んで合計六日ほどかかるので、少しだけ急がせた格好になる。
伝令の早馬はとっくにハルティア城に着いているはずだから、あまりのんびりしていられなかったのだ。
「あのボンクラ王子め! 許さんぞ!」
アリシアは城に戻るなり、兄のラスターがキレているのに遭遇した。
ラスターは聖騎士伯家嫡男にあたる。今年で数え年20歳になる。アリシアと同じく、きれいな金色の髪と、東部地区は日の当たりが弱いので透き通るような白い肌をしている。
「お兄様、落ち着いてください。今、お兄様がキレて得をすることは何もありませんよ」
言って聞くラスターではないのはわかっていたが、アリシアはとりあえず兄をなだめることにした。
「だからって、こんなに妹がコケにされたんだぞ。黙っていられるか!」
「それはそうですけど、お兄様にはお父様が荒れ狂うのを止めてもらわないといけないんですから。あんまりヒートアップするのはやめてください」
聖騎士伯家の当主である父親が王都に攻め込もうとしたりすれば一大事だ。
「それもそうか。というか、アリシアは帰ってきたばかりで、まだ父上に会ってないんだな」
ほかの家臣の目があるところでは、ラスターは父上と呼ぶ。人の目がないところでは「親父」と呼んでいた。
と、そこに父親が姿を見せた。娘が帰城したという話を聞いて、政務をとりやめてきたのだろう。
聖騎士伯家当主のオルテリック、四十一歳。
伝統ある聖騎士伯家の名に泥を塗ることなく、務め上げている。過去には地方の民衆の反乱やオークの反乱などに何度も出陣し、その武勇はマリティア王国内部だけでなく、他国にも鳴り響いていた。
長いもみあげと立派なあごひげがいかにも武骨な将軍という印象を与えるが、領内の統治にも目を配り、民からも善政を慕われている。まさに知勇兼備の武将だった。
そんなオルテリックは、アリシアが一見したところ、すこぶる笑顔でいた。
(よかったです。これで当主が代々継承する初代の鎧に身を包んでいたりしたらどうしようかと思いました)
アリシアもほっとする。婚約破棄の一報を受けて、頭に血がのぼっているわけではないようだ。
「我が愛する娘アリシアよ、よくぞ帰ってきた」
オルテリックがアリシアの肩に手を置く。
「さて、今度は私がうつけの王子の首をもらいに出陣する番であるな」
「そうですね、あの王子に泣きべそをかかせて…………じゃないです! お父様、何をおっしゃっているんですか!」
オルテリックはまったく冷静ではなかった。人間、腹が立ちすぎると、かえって笑ってしまうものだが、そういう時の表情であったらしい。
「そういうのは困ります! 戦争となれば、多くの民が死にますし、それの責任がわたくしにも、のしかかるんです! 気軽にそういうことをやろうとしないでください!」
「しかし、聖騎士伯家の面目がつぶされてしまったのは事実で、かくなるうえは討って出るしかない…………と思ったが、愛する娘がやめろと言うなら討って出る大義名分もないから、こらえておくとするか」
オルテリックはあっさりアリシアの言葉を受け入れて、その場で鎧を脱ぎはじめた。
居城に兵士を集めている様子もなかったし、たんなるデモンストレーションだったようだ。
「そういう冗談は娘の心臓に悪いです。それに、そもそもの話、この縁談が壊れたこと自体はそんなに悲しくはないですし。カルストラ王子は軽薄な人として、宮廷での評判だってそう高くはありませんでした」
カルストラは次の王位継承者である王太子でありながら、その言動から評価は低かった。
「噂は所詮噂としても、何度かお会いした折も、プライドが高すぎて遠い先のことまで考えた決断が下せない印象はありました。かといって神話の英雄のような剛毅な『男らしさ』などとも無縁で、温室育ちの線の細い方で……」
「妹よ、別にこの城の中で遠慮する必要はないぞ。長々と語ってるが、つまるところ、暗愚な人間だし、タイプでもないと言いたいんだろ」
ラスターが切って捨てた。
たしかにそういうことなので、アリシアもうなずいた。
「そうですね。わたくしのほうから、そんな理由を述べて王太子との婚約を破棄することはできませんし、嫁ぐことになるならそれはそれで受け入れようと思っていましたが、少なくとも向こうから婚約破棄されて、悲しくてたまらないといった気はしません」
ご縁がなかったということだけだ。
問題は王子カルストラのやり口が一方的過ぎて、波乱を起こしかねないものだったことだ。
「私も身分以外にとりえのないあんな若造と娘が結婚するべきだと思っていたわけではない。しかし、長屋の住人同士の恋愛ではないのだ。婚約解消にだって、それなりの筋の通し方というものがある。それを無法なやり口で行うなら、それはアリシアの名誉を踏みにじる行為と同じだ。ああ! しゃべっていたらまた腹が立ってきたわい!」
「つまり、それぐらい、あの王太子は暗愚だってことです」
アリシアは父親オルテリックの肩に慰めるように手を置いた。
オルテリックの鎧もようやく脱ぎ終わっていた。そもそも鎧を外すのは一人では重労働なので、それをあっさりやってのけるあたり、オルテリックの戦慣れを示している。
「むしろ、百歩譲って暗愚なのはいいのです。問題は暗愚なうえに、性格も悪いことですね」
アリシアは婚約破棄を告げる王子がずいぶん楽しそうだったことを思い出した。
ここぞというタイミングで話を切り出すのを狙っていたのだろう。
「あんなことを続けて、大貴族の面目をつぶすことを続ければ、いつかは大きな反乱に結びつきますよ。そうじゃないとしても、武装した者の前でその人の面目をつぶして、いきなり斬り殺されたりしそうです。どっちにしろ、あれではいい死に方はできませんね」
別にアリシアは王子を呪ったわけではない。おごりたかぶった者が破滅した話などは、歴史書にいくつも前例がある。
「そうだな。あのバカにはいずれ報いが来るだろう。それを俺も楽しみに待っていてやろう」
ラスターは完全に王子を呪いたいようだ。
「楽しみに待っていてください。ただ、王子の性格の悪さのせいで少しだけ困ったことになりましたね。実害があると言えばあります」
アリシアは疲れたため息をついた。
「婚約破棄なら破棄で、もっと早くに発表してほしかったです。貴族の娘が十八で婚約者もいないというのは……客観的な事実として、遅いですよね」
通例としては、大貴族の娘は政略上やむをえないようなことがなければ、十六か十七で結婚するものだった。
十八だからやけに遅いと思われるようなことはないが、今から家格に見合う婚約者を探して婚約するとなると、なかなか気の長い話になりそうだ。
聖騎士伯家は貴族全体からしても、かなりの大物だ。家柄が吊り合う貴族で、なおかつ婚約者のいない結婚適齢者がいなければならない。選択肢はかなり限定的である。
しかも、王子との婚約者であった間は、さすがに第二候補を探すような真似はできるはずもなかったので、狙い目の貴族の当たりさえ何もつけられていない。
(隠棲して、修道院に入るのも一案かもしれませんね)
アリシアは心の中で、生涯独身の可能性を検討しはじめた。
(一生、本を読んで、だらだら過ごすのも悪くはないかもしれませんね。それはそれで悪くはないかも)
明日から1日1話ずつぐらい更新していく予定です。よろしくお願いいたします!