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蝉時雨

作者: あさな

 私はそのとき自分が子どもであるとも無自覚な十三歳の女の子だった。

 彼は三歳年上の十六歳で、とても大人だった。それは子どもの私から見て大人に感じるというのではなくて、大人になった私が振り返ったときに、彼がいかに大人だったのかわかる、というぐらい大人すぎたので、あの頃の私には彼が大人であることなんてまったくわからなかった。そして、それがひどく悲しいと今の私は思うのだ。

 大人すぎた彼は、駆け足に人生を終わらせてしまった。

 暑い、暑い、夏の日に。


 その日は夕暮れになっても蝉はやかましく鳴き続けていて、どこで鳴いているのだろうと、私は信号待ちの間に傍の木の幹を見つめて探していた。アリのような小さな虫が隙間を縫うように這っているのが見え、ぞくりと背筋が震えるだけで、蝉の姿は見つからなかった。

 信号が青に変わり、ああ、渡らなくちゃ、と思ったら向こうから兄が姿を見せた。買い換えたばかりの自転車に乗っている。変速六段階の青い自転車だ。変速というのがよくわからなかった私は、自慢する兄の求める反応が出来ずに機嫌を損ねてしまい、お前には絶対乗せてやらない、と小学生みたいな口調で拗ねられた。兄は私よりもずっと子どもだ。

「美菜子。」

 兄は横断歩道の前で止まり、私をせかした。

 どこかへ向かうのではなくて、私を迎えにきたらしい。まだ、それほど遅い時間ではないのにな、と不思議に思いながら、私は蝉の声に後ろ髪を引かれ、のらりくらりと渡った。

 半分ぐらい渡ったところで、ふいに音が止んだ。

 何もかもが聞こえなくなって、夕日の赤く染まった空が、恐ろしく不気味に映り、胸が苦しくて、動悸がした。

 ああ、何か、よくないことが起きたのだ。

 横断歩道を渡り終えるまでに私は覚悟した。

 兄の傍まで行くと、神妙な顔をしている。見慣れないその顔を笑い飛ばしたい、と思った。そんな真面目な顔、お兄ちゃんらしくないよ、と言ったらすべてはいつもの通りの平穏に戻るのではないかと。けれど、そんなことはないのだと、私は口をつぐんだ。

「桂一が死んだ。」

「うん。」

 何が、うん、なのか、ちっとも、うん、などではなかったのに、うん、と告げた。なんでもないことのように。今日の夕飯は昨日と同じカレーだってさ、と言われたぐらいのように。

「今日、お祭りに行く約束してたのに。」

 それから、私はそう続けた。

 桂ちゃんと、二人でお祭りに行く。春に、約束した。

 今年の春、桂ちゃんはこの辺で一番の進学校に合格した。桂ちゃんの両親、私にとっては叔父叔母にあたる彼らは、うちの両親とは違って教育熱心で、叔母さんは一人息子の桂ちゃんに命をかけていた。だけれど、叔父さんの仕事があまりうまくいっていないようで、私学へ入学させるお金がないと中学受験は断念した。代わりに、公立ではあるけれど一番の進学校であるその高校へ入学させたかった。競争率は六倍とか言っていた。かくして桂ちゃんは受験戦争に参戦することになったのだ。とはいっても、桂ちゃんからギラギラした雰囲気を感じることは一度もなかった。ふわふわとして、にこにことして、この人本当にあの学校を受けるのだろうか、と私はひそかに怪しんでいた。うちの兄と桂ちゃんは同じ年で、兄の受験勉強の様子を傍で見ていたから(兄は大学まである私学を受験する)、桂ちゃんののんきさに大丈夫かなと心配した。けれど、桂ちゃんは見事に志望校に合格した。

 合格してすぐに、桂ちゃんは私に会いに来て、

「みーこちゃん、僕と付き合わない?」と言った。

 緊張も興奮もなく、にっこりと笑って言うので、どこか近所のスーパーや、公園への誘いなのかと思うほどだったけれど、まぎれもなく恋人として付き合うということだった。

「私たち、従兄妹だよ?」

「従兄妹同士は結婚できるんだよ。」

「でも、私、十三だし。桂ちゃんはロリコンなの?」

「違うよ。みーこちゃんが好きなだけ。」

 ああ、なるほど、と私は納得した。それまでも、桂ちゃんが私を「みーこちゃん。」と呼ぶときに見せる甘い感じに、なんとなくそんな気がしなくもなかったけれど、私にはそれが好きということなのか今一つ自信が持てなかった。私は誰のことも好きではなかったし、誰かから好きと言われたこともなかったから。なんとなく、しかわかっていなかった。

「みーこちゃん、僕のこと嫌い?」

「嫌いじゃないけど……付き合うってよくわからないよ。」

 私が言うと、桂ちゃんは少しだけ考えた後、

「付き合うっていうのは、いつもの夏祭りに二人で出かけたりすることだよ。今年の夏祭りは僕とみーこちゃんだけで行こう。晴海には悪いけれど。」

 夏祭りは毎年私と、兄と、桂ちゃんの三人で行っていた。それを兄抜きで行くのだという。二人きりで。兄はいつも強引だ。射的やくじや金魚すくいが好きで、私はそれを少しも好きじゃない。兄がいないなら、もっとゆっくり見て回れる。それはとても嬉しいことだった。

「うん、わかった。」

 だから私は頷いた。桂ちゃんと付き合うことに。そして今年の夏祭りは二人で行くことに。

 そう、約束した。

 でも、桂ちゃんは死んでしまった。

 止んでいた蝉の声が聞こえ出した。やかましく。そうであるのにとても寂しく。命を削るような切ない鳴き声だった。


 桂ちゃんが死んでしまってからも、私の日常は、それほど変わり映えしなかった。

 薄情だな、と思ってみてもそれが事実だった。

 年の近い従兄が亡くなってしまった。叔母の悲痛な表情と絶望を目の当たりにして、親より先に死んではいけないのだと心の深いところに絶対にとれない杭を打たれたような気がしたけれど、私は毎日学校へ行き、なんてことのない日常を送り続けた。

 それから、恋もした。

 私が二人目の恋人を作ったのは、二十六歳のときだ。初めての恋人――桂ちゃんと付き合ったのが十三歳で、それから十三年後。それがどうも私のサイクルのようなものであるらしく、私は告白された。

 それまでも合コンに行ったりもしていたのに、まったくと言っていいほど相手にされなかった。何度かデートにはいくのだけれど、付き合うまでに発展しない。私も、相手も、どうも何かが違うなぁという感じになってお友達でいましょう、ということになる。相変わらず私は誰かを好きになることもなかったし、誰かから好かれることもなく、ひょっとして桂ちゃんが唯一私を好きになってくれる人だったのかもしれないと思ったりもしたのだ。でも、ひょっこりと恋人が出来た。その人は会ってまだまともなデートもしていないのに、付き合ってください、と言ってきた。私のこと何も知らないのに? と思ったけれど、私は何故だか頷いた。

 その人はどうもいわゆる奥手なタイプで、これまできちんと女性と付き合ったことがないらしい。私が初恋の相手みたいなもので、些細なことにも敏感に繊細に反応をしめした。たとえば手をつないだとき、たとえばジュースを回し飲みしたとき、たとえば帰りの電車でうっかり私が眠って彼の肩にもたれかかったとき、その人はとても優しい顔をして私を見た。私はその顔を見てとても泣きたくなった。その顔を知っている。それは桂ちゃんが私に見せてくれた表情と同じだった。

 やがて、私はその人を好きになりはじめた。その人の誠実さに、真っ直ぐさに、繊細さに、弱さに、悲しみに、すべてに寄り添っていたいと思うようになった。ずっと一緒にいて、生涯を共にしたいと。――人を好きになるというのはこういうことなのかと私はようやく知った。


 その人にプロポーズされ、結婚を決めたのは、付き合い始めて二年が経過した夏だった。

 結婚式は来年の春にしようと言われ、うん、いいね、と私は答えた。

 それから、私は一人でお墓参りに行くことにした。――桂ちゃんの。そんなこと今まで一度もしたことがなかったのに、私はどうしても、桂ちゃんに言いたかったのだ。

 あの頃、私はとても子どもで、桂ちゃんが私をどんな風に思ってくれているのか理解することが出来なかった。今になってようやく、どれほど真剣に私を好きでいてくれたかわかった。桂ちゃんは本当に私を好きだったのだ。自惚れではなく心からそう思えて、とても嬉しかったことを伝えたかった。それから、ごめんね、と言いたかった。ごめんねと、バカヤローを言いたい。好きになれなくてごめんね、と。好きになる前に死ぬなんて酷い、と。私はきっと桂ちゃんを好きになっていただろう。一緒にお祭りや遊園地や水族館へ行って、いっぱいデートをして、二人で過ごすうちにきっと私は桂ちゃんをちゃんと好きになっただろう。そうなる前に死ぬなんて、一方的に好かれたままで、好きになる前に死ぬなんて、そんなのヤリ逃げされたようなものだ。ひどいじゃないか。

「桂ちゃん。私、お嫁に行くよ。それでね、幸せになる。」

 桂ちゃんはあの世でどう言うだろう。おめでとうと言うだろうか。それとも悔しがるだろうか。桂ちゃんではない人と結婚することにやきもち焼いてくれる? 今もまだ、私を好きなままでいる?

 私は両手を合わせて、静かに目を閉じる。

 蝉が鳴く。暑い夏の夕暮れ時。蝉が止むことなく鳴き続けていた。

読んでくださりありがとうございました。


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