渦影
毎日プログラムを書き、会社で仮眠をとるそんな生活が続いて何年が経つだろう。
新社会人の頃に持っていた夢や希望なんてものはなくなり、今はただ始発で家へ帰るため、駅へと歩いていった。
ただ下を向き歩く、駅まではあと10分、見慣れた道を歩いていく。前を向く気力すら残っていない。後ろからトラックの走行音が聞こえる、午前4時、時間通りに資材を届けるため運転手たちが夜も眠らずに配送を続ける。走行音はやがて大きくなっていき俺を追い抜く。すると荷台から落下した木材が俺の頭を貫いた。
死んだはずなのに痛みは続く、顔がひしゃげる瞬間に出たアドレナリンが止まないまま、視界が明るくなる。潰れたはずの眼球がある証拠だ。そこに広がるのは一面の雪景色、そこには羽の生えたウサギが飛び跳ねていた。
物が見えるといことは目があるということである。
ひいては匂いも感じ取れるし自由に動くことができる、しかし、手や足、ましてや顔や胴体があるようには感じない。痛みで体の輪郭はわかるが可動させることはできないのだ。
まるで自分という意識の概念そのものが実態を持って一人歩きをしているような感覚である。
羽の生えたウサギに近づいてみるが、逃げる素振りは見せない、まるで俺の存在を気にしてすらいないようである。
いや、そのウサギの瞳にはそもそも俺の姿は映っていなく空虚に空の青が赤の瞳に混じっているだけだった。
その後夜がふけるまで自分に存在について考えた、透明でものにも触れれなかった。自分という存在はまるで幽霊のように存在しているがそれを認識できるのは自分だけだった。ただ前へ進みながら夜空を眺めた。体が棒立ちのまま45度傾いた。体は動かせないが角度を変えれば自由に見回すことができる。
俺が潰れた時はあけぼので空は少し暗いようで確かに太陽はそこにあった。今はただ暗闇と降り積もった雪の静けさだけが俺を包んでいた。
そこからまたしばらく進んだ。暗い雪原に暖かな光が反射した。そこには小さな村があった。年老いてはいるが筋肉質で腰に剣を下げている男と、痩せ型で背が高く、身なりの整った男がテーブルを挟み対面して座っていた。年老いた男は見慣れぬ文字の上に金の指輪を置いた。痩せ型の男は少し不満げに何かを告げた。俺にはわからない言語なのは確かである。
その後数年間観察を続けてわかったが、ここは港を持つ小さな村であり、海賊の持つ財宝と引き換えに世話をしてやっているようだった。
指輪は信頼度を意味し、指輪に描かれている家紋が価値を持つ。その家紋の位が高ければ高いほど、より価値のある財宝を海賊が所持している可能性が高いのだ。
今年は、戦争でもあったのだろうか、いつもより見慣れない指輪を取引台に置き、大量の加工済みの果実と数ヶ月の滞在を希望していたように見える。
ここで加工済みの果実とは、砂糖のような粉が詰まった壺に果実を入れ、夏の暑い日に海の奥底に沈めて秋まで放置したものである。
壺を破ると八面体の果肉模様の結晶が出来上がる。
海賊たちに取ってそれは壊血病を防げる唯一の保存食であり、それが海上でどれだけ活動できるかを決めるものとなっていた。
海賊たちの来訪は村人たちもそうだが、俺にとっても嬉しいものだった。彼らの笑い声や歌は数少ない娯楽の一つであった。
だが、その楽しい時間もすぐに終わりを迎えた。
1ヶ月後、冬がまだ明けてないような夜に軽装の海賊とは正反対の鎧を着込んだ兵隊達が、村を訪れた。
徴兵のために訪れたであろう兵隊は、文句を言う海賊達に槍を向けて黙らせていた。
それからさらに3ヶ月が過ぎた、海賊の世話が必要無くなったことにより村は潤っていた。村長は他の村から女を買い奴隷にしていた。
村には余裕があったおかげか奴隷と言っても俺の社会人生活より楽しそうだった。
畑の手入れや洗濯などの作業が終わったら酒を飲み、飯を食い寝る。二日酔いになったら、仕事を休んでいた。
そうした日常が続く中、冬がまた来た。
いつもなら海賊が休暇に来ていい頃合いのはずなのに、一向にこなかった。
村人達の不安も募っていき、次第に奴隷への風当たりが強くなっていった。
以前なら奴隷の作業を手伝っていた村人も、無視するようになり、冬場の冷たい水仕事や羽ウサギの氷作りの作業を一人でやらされていた。
そこから春になってようやく海賊たちは来た、船長は足を無くし、船員も10人程度しか残っていなかった。
船には死体が積んであり、ネズミがたかっている状態だった。見たこともない粘液にしたいは包まれており、それを利用して船に空いた穴を埋めていた。
戦利品は何もないようだったが、村唯一の収入源である海賊を野放しにするわけにもいかないので村長は介抱してやるように決めた。
そこから数ヶ月が過ぎた。海賊たちは伝染病を運んできたようだった。海賊たちの腕は象の皮のような厚い皮膚に囲まれ、腕以外の部位には大きな水ぶくれが広がっていた。
海賊は小さな村外れの小屋に押し込まれ奴隷たちが世話をしていた。その後伝染病は少しづつ村へと広がっていった。
秋がきたいつもなら果実の加工物を作る時期なのだが、村人達にはそのような気力はないように思えた。村人たちの体は白い鱗のような瘡蓋に覆われて粉を常に吹いていた。海賊は同じようにして瘡蓋に囲まれていたが、それが剥げると肉が露出し、皮膚は再生せずに違う感染病にかかって死んでいった。
意識しかない俺にはどうしようもできなかった。
ただ村が死んでいく様子を木の葉の落ち掠れる音と共に眺めるしかなかった。
やがて、最後の一人である奴隷が息絶えた。海賊の一番そばにいながらこの奴隷は最後まで生きた。
その時だ、奴隷の体から温かな、光を吸い込み、青暗い何かが飛び出した。それはきっと魂の本質だと思った。もしかしたら仲間が増えるかもしれないと俺は必死にそれを掴もうとした。しかし体は動かない。他人を自分と同じ地獄に引き込もうとする自分の浅ましさに嫌気がさした。
そこから数年ほど俺は海を進んだ。いなくなった海賊を追いかけるようにただ進んだ。
実態のない体はすごい速さで進むわけでもなく、いくら進もうとしても歩くスピードの範疇を越えることはなかった。
ある時海の奥底に何か虫のような長い長い線状の太い影を見た。影は俺に迫り来た。その体を俺を包み通り抜けていく。その瞬間わかった。
この影は時間だとわかった。影が進むたび自分は過去を見た。影は時間が物理的に認識できる実態を持った物だった。その影が進むたび走馬灯のように自分は人生の巻き戻しを体験した。
そして自分は病院で目が覚めた。
その後医者から説明を聞いたがトラック荷台から何も落ちてきてはいなく、何か大きな力が俺に加わり、吹き飛んだ姿だけが監視カメラには写っていたらしい。
そこには何か人には知覚できないような存在が存在して俺はそれに巻き込まれたのだ。それは渦のようで虫のようで、影のようだった。
人生っていうのはまるで金縛りにあったように身動きの取れない制限の下で楽しいことや苦しいことがとめどなく渦のように夕日が空の青と混じって行くように、そんな美しいものだと思います。