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手負い侍、匿いて候  作者: 五十鈴 りく
捌❖別れの十月

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〈十七〉

 そして、約束の三日後。

 迎えの駕籠はなかった。戻ると自分で言ったのだから、自分から戻れということだろう。


 念のため、親信が送ってゆくことになった。昨日のうちに藤庵たち、関わった者にも挨拶をしておいたのだ。

 長屋総出で幸之進を見送る。幸之進は、なんとも感慨深い目をして皆の顔を見遣った。


「世話になった。また遊びに来る」

「ああ、待っておりやす」


 半治も複雑な面持ちで言った。皆、泣いて言葉が上手く出てこないようだった。

 そんな中、加乃と手を繋いでいる親太郎が嗚咽を漏らした。親信はそんな息子の前に片膝を突く。


「親太郎、泣かずに別れると約束したな?」


 昨晩、親太郎にはよく言い聞かせたのだ。幸之進とは住む場所が違うのだ。(たま)さかに交わってしまったばかりに近しい者のように感じてしまうけれど、本来であれば口も利けない相手だ。身分の隔たりというのは越えられぬほどに分厚く、この薄い長屋の壁とは違う。


 親太郎は、幼いながらに精一杯涙を堪えている。その姿を見ると憐れだったが、いつまでも泣いていたのでは幸之進も帰りづらくなってしまう。だから、泣きたくても泣いてはいけない。相手のために涙を堪えられる男に育ってほしいのだ。


「あーがとうござーまった」


 それだけ言い、グッと唇を噛んでうつむいた息子の頭を、親信は撫でて労わった。


「偉いぞ、親太郎。沙綾もきっと見ていてくれる」


 親太郎には泣くなと言ったが、幸之進の方がまるで芝居の一幕のように美しくはらりと涙を零した。

 ああ、幸之進も心からこの別れを悲しんでくれている。それを知れただけで十分だ。


「加乃殿、親太郎。別れは告げぬ。また会いに来る。また会える。それは必ずだ」


 それが何年後になるのかはわからない。それでも、幸之進は会いにくるつもりがあるのだ。実現するかどうかはわからないが、気持ちだけはありがたく受け取っておきたい。


「幸之進様もどうかお健やかにお過ごしください。今まで、本当にありがとうございました」


 加乃も、泣かずに別れるのが難しかった。口早にそれだけ言うと、後ろを向いてしまった。涙を拭う加乃に、幸之進は微笑む。


「加乃殿の成長を楽しみに待っておる。ではな」


 何か不吉なひと言を残した幸之進を、長屋の皆が見送る。


「また来てくださいねっ」

「いつでも待ってますよっ」


 大きく手を振る幸之進は、どこか晴れやかにも見えた。それは心配事が解決したからでもあるのだろう。今後は継母とも上手くやっていけるのだろうし、もう大丈夫だ。



 秋の風は冷たく吹き、冬の訪れを予感させる。雪が降ったら心が寒くなる。別れの時が今でよかったのかもしれない。

 川沿いを歩きつつ、親信はそんなことを思った。

 ――しかし、歩き出してすぐに幸之進はぼやいていた。


「長屋暮らしは楽しかった。帰ると楽しいばかりではないからな、そう思うと気が滅入る。ササメユキなる妙な名も気に入らぬのだ」


 先ほどの涙が嘘のようにして、またそんなふざけたことを言い出す。

 むしろ、そうしていないとまた涙が零れるから、軽口でごまかすのかもしれない。


「名は、家督を継いだら改名すればいい。それから、おぬしは柏餅が好きなのだから、柏の家紋は似合いだ。駄々をこねるな」


 柏餅――と幸之進はつぶやく。


「そうか、それもそうだな」


 それで納得するのも変だが、この男は最初から変だった。

 出会ってから、毎日振り回された。放り出したい思いしかなかったが、いざ別れるとなると、やはり親信もまったく平気というわけではなかった。


 沙綾を(うしな)ったあの苦痛から、再び笑顔を取り戻して過ごせるようになったのは、もしかするとこの厄介な男のおかげなのかもしれなかった。欠けていた心を無遠慮に塗り込めて、そうして去っていく。


 もしかすると、幸之進を(いざな)ったのは沙綾ではないのかという気がするほどだった。

 幸之進は正面を向きながら、唄うように澄んだ声音で言った。


「俺は上田に斬られた時、もしこれで死ぬのならそれまでだと思っていた。どうあっても死ねないとは思わなかったのだ。どうしても死ねない理由がなくてな。それはきっと、やりたいことがなかったからだ」


 若者らしいと言えばそうなのかもしれない。しかし、幼少期はともかく、幸之進は他者から見れば多くに恵まれた男である。贅沢だと言わざるを得ないところだが。

 それでも、幸之進は親信の方を見向き、晴れやかに笑った。


「しかし、親信殿のところで厄介になり、町の暮らしに触れた今となっては、どうでもいいとは言えぬのだ。俺が今後立たされる立場はその町人の暮らしを守るものであるのやもしれぬからな。世話になったことだ、今度は俺が返す番だろう」


 幸之進も親信たちのところで何かを学んだのだ。それならば、この出会いは意味のあるものになる。


「そう思ってくれるのなら、ありがたい」


 親信がそれを口にすると、幸之進は嬉しそうに、無邪気な笑みを見せた。この男がそんなに無垢なわけがないのだが、そう言いたくなるような微笑だったのだ。


「うむ。親信殿がそう申してくれるのなら、俺も少しくらいは精進致そう」


 少しくらいというのが引っかかるが、まあいい。

 親信もうなずいた。

 その後、道中は他愛のない話をした。本当に、これが最後なのだ。


 

 大人の男の脚で行けば、江戸市中なのだから何日もかかるものではない。前に来た時と変わりない立派な表御門が見えた。

 中にまでは入るつもりはない。親信はその途中で立ち止まった。


「それではここまでだ。小次郎によろしく伝えてくれ」


 すると、幸之進はじっと親信を見つめ、軽く目を伏せるとうなずいた。


「ああ。俺がついておるので心配は要らぬよ」


 この場合においては、本当に心配せずともよいような気になれた。幸之進は大目付がどう言おうとも、小次郎を見捨てたりはせぬだろう。また、幸之進のそばに小次郎がいることにも安堵できる。


「そうだな。では――」


 その時、幸之進は親信の言葉を遮った。


「また会いに行くと申した。だから、別れは言わぬし、聞きたくもない。俺は、別れが嫌いなのだ」


 最後までわがままだ。しかし、当人がそう言うのなら合わせてやろう。


「わかった。またな」

「うむ。また――」


 幸之進は嬉しそうに笑った。

 親信はそんな幸之進に背を向け、来た道を戻る。


 互いが、在るべき場所へ戻ってゆく。共にいたのはうたかたの夢のようでも、それは確かに、(うつつ)のうちにあったことなのだ。

 もう交わることのない相手だとしても、遠くでその名が耳に入るのを楽しみにしてみよう。


 親信は口元を持ち上げ、それから空を見た。

 さあ、今晩の菜は何にしようかと。

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