〈五〉
せっかくの貴重な休みは、わけのわからない若侍によって潰されてしまった。疲れが癒えたどころか、余計に疲れた一日である。子供たちとゆったりと過ごすこともできず、ただ慌ただしく幕を閉じた。
その翌朝になって飯を炊き、幸之進も加えた四人で朝餉を食べ終えると、親信は手習所へ向けて出かけるのだった。しかし、いつものように送り出してくれる加乃と親太郎の他にもう一人。
「留守は預かった。安心して勤めに励んでくれ」
留守を預けたつもりはない。
そのへらへらとした顔に腹が立つも、相手は怪我人。親信は耐えた。
「加乃、親太郎、困ったことがあれば大家殿のところへ行くのだぞ」
「はい、父上。いってらっしゃいませ」
「いってらっしゃぁませ」
子供たちは三つ指突いて送り出してくれた。
「俺がついているのでな、心配は要らんよ」
などと言う幸之進だが、お前がいるから心配なのだと、親信は険しい顔をしてみせる。それが通用することもなかったのだが。
長屋の壁は薄く、何かあればすぐにわかる。そうすると長屋の連中が助けに来てくれるから、幼い子を残して出かけられる。もちろん心配ではあるけれど、こちらも稼がなくてはならない。加乃はともかく、親太郎はまだ小さいので、手習所に連れていってもじっと待つのが難しいのだ。
親信は出かけに大家のところに寄り、事情を話すことにした。長屋で大家が知らぬことがあってはいけない。
この〈きなこ長屋〉の大家は、安兵衛という老爺である。人柄は穏やかであるが、それは年を取って丸くなったのだと当人は言う。
ちなみに、何故にきなこなのだといつも思うのだが、訊ねたことはない。きっと、建てたすぐの頃は木材が綺麗なきな粉色をしていたのだろう。今ではそれも見る影もなく黒ずんでいるのだが。これでは〈あんこ長屋〉の方が合っているかもしれない。
「大家殿、少しよろしいか」
朝早くから申し訳ないが、年寄りは朝が早い。夜分に邪魔するよりは朝の方がいいだろう。
戸の前で呼びかけると、安兵衛が手ずから戸を開けてくれた。
「向井様、おはようございます。今から出かけられるのですね」
「ええ、その前に少々聞いて頂きたい話がございまして」
安兵衛は、浪人に過ぎない親信にも敬意を持って接してくれる。浪人は浪人であり、武士とは呼べない。それでも、そんなことは言わずにいてくれる。
親信自身は一度も仕官したことがない。父が播磨姫路新田藩に抱えられていたのだが、親信が幼い頃に改易――取り潰されて家臣は路頭に迷ったのである。
その理由というのが無嗣廃絶。最後の当主は親太郎と同じ、たった三つであったという。跡継ぎなどいるはずもない。
恨めるところすらなかった。父は母と親信を連れ、仕官先を探して江戸まで出てきたのだが、それはそう容易いことではなく――あれは親信が十六になった時だ。
長屋の部屋が空っぽになっていた。先の見えない貧乏暮らしが嫌になり、逃げたのだと長屋の連中が噂していた。父は弱り、再仕官さえ叶っていればと嘆きながら死んだ。
それから、親信は門弟であった道場に住み込みで置いてもらうことになった。父も剣術の腕だけは確かであったから、親信にもそれを求めた。倹しくやりくりしながらも、道場には通わせてくれていたのだ。
貧乏浪人の出がらし息子だと、門弟たちには散々馬鹿にされた。それでも、いつかは見返してやろうと下男のような仕事もこなしながら剣術に励んだ。友もできたが、今は疎遠である。
そして、道場主の娘と割り無い仲になった。若い娘にとっては面白みのない男だったはずなのに、娘は親信を慕ってくれたのだ。
しかし、許しなど得られるはずもなく、出ていけと追い出された。娘に対してまで、もう親も家もないものと思えと、道場主は大層な怒りぶりだった。それでも娘は親信に寄り添ってくれた。それが亡き妻の沙綾である。
親信は、そんな妻のために身分が欲しかった。自分のためにすべてを投げ打ってくれた妻に、そうして報いたかったのだ。しかし、それも叶わぬ夢に終わった。
ふとした拍子に苦しかったことが思い起こされた。その古傷の痛みが、降って湧いた幸運をありがたがりもせずにわがままばかり言う幸之進への苛立ちに変わった。
それは逆恨みであると、親信はとっさに考えを切り替える。
「実は、昨晩――」
安兵衛は、じっと黙って話を聴いてくれていた。親信が幸之進のことをすべて話し終えると、ほぅっと息をつく。
「向井殿のところに見目のよい若侍がいると皆が騒いでおりましたが、そういう事情でございましたか。木戸が閉まる前に逃げ込めてようございましたな」
時刻が遅ければ、木戸が閉まり、長屋へ入り込むことなどできなかった。そういう意味では幸之進はついているのかもしれない。
「命に関わる傷ではないのですが、しばらくは居座るつもりらしく――。傷が癒えれば放り出しますので」
堅苦しい暮らしが嫌だと飛び出してきた幸之進だから、この貧乏長屋暮らしにもそのうちに嫌気がさして出ていくと考えていいかもしれない。
微禄だったとしても、もとは旗本家で暮らしていたのだ。長屋暮らしほどには窮屈な思いもしていないのだから、きっと耐えられない。
幸之進は失うものが何もない気楽な身の上なのだ。気の向くまま、あっちにふらり、こっちにふらりと漂っていればそれでいい。自身もそんなふうに考えているからあの態度なのだ。
「まあ、ここで倒れていた怪我人の面倒を見るのは、長屋としては当然のことですから」
などと言って安兵衛は穏やかに笑ってみせる。大らかなものだと思ったけれど、ただ単に人が増えれば下肥料――農家が肥料に買い取る糞尿が増える、と密かに喜んでいるなんてこともあるだろうか。
「厄介事を起こさずにいてくれさえすればいいのですが」
どうにも、幸之進は何かをやらかしそうに見えてしまう。人目を引く容姿をしているが、そればかりでなく、何やら余分なものが溢れているような、そんな気がするのだ。
その余分なものが他人まで巻き込む。
取り越し苦労であればいいとは思うのだが。
「向井様が手習所におられる間、皆で気にしておきましょう」
「かたじけない」
頭を下げ、親信は安兵衛のところを出た。
まだまだ春にしては寒い朝のことである。
この浅草のすぐそば、下谷の北は、新寺町と名がつくほどに寺ばかりである。その数多ある寺の中のひとつ、〈王泉寺〉。ここの住職と知り合ったのは、本当に偶さかのことである。
親信は、ずっと仕官することばかりを考えていた。だから、所帯を持ってからも剣術だけは手を抜けなかった。幸い、腕は立ったのだ。だからこそ、それだけが光明に思えた。
ろくに働きもせず、木刀ばかり振るっていた夫と幼い子供のため、沙綾はいくつもの内職をこなしていた。針子をして、それを届けに行く際、王泉寺の前を通ることから、いつしかそこの住職とも挨拶を交わすようになったという。
時が経ち、親信は己の才覚では仕官など土台無理な話であるということに気づき始めた。
――よいのですよ。私は、つつましく暮らしてゆければ十分にございます。
沙綾は、親信の背を押さなかった。いつも、このままでいいと言った。
それは、沙綾もまた親信の底の浅さを知っていたからではないだろうか。お前様ならばできます、とそんなふうには一度も言われなかった。
否定もしないけれど、できるとは言われなかった。ただ、親信の気が済むようにすればいいと思っていたように見えた。
沙綾はきっと、正しかった。今ならそれがわかる。
親太郎が生まれたのを機に、親信は諦めた。この程度の腕前で召し抱えられると思っていた方がいけないのだ。今後は父親らしく、もっと地に足をつけて妻子を養っていかねばならない、と。
「仕官を諦めてもよいだろうか――」
加乃と親太郎を寝かしつけた後、横になっていた身を起こした沙綾に親信は言った。薄暗い中だった。互いの顔も見えない。
それは、そんな時でなければ言えなかった親信の弱さの表れであった。それを沙綾は見抜いていたはずだ。情けない夫にかけた言葉は、労わるように優しかった。
「ええ、よいのです。私は、つつましく暮らしてゆければ十分にございます」
「十分な金もなく、狭い長屋で襤褸をまとって、それでもよいと申すのか? 女子ならば美々しい着物や簪に憧れるのではないのか?」
卑屈なことを言ってしまった。己を飾り立てて誰よりも美しく見せたいと思うような女子なら、そもそも親信のところに来たりはしなかったはずなのだ。
「そんなこと、望んでなどおりませぬ。私は今が仕合せにございます」
本心だろうかと疑った。
本当のところは、沙綾にしかわからない。ただ――。
沙綾はできた妻であった。親信には勿体ないほどの。
いくらでも他の仕合せが得られた沙綾を、親信は本当に仕合せにしてやれたのだろうか。こんなにも早く逝ってしまったのは、親信のせいではないのかと、いつもそこに行き着いては心が重たくなる。
ただし、子供たちの前では情けない父でいたくない。
未だ癒えない心の傷に蓋をして毎日を生きていた。