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手負い侍、匿いて候  作者: 五十鈴 りく
捌❖別れの十月

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48/73

〈一〉

最終章になります。全18話です。

 その噂話が親信(ちかのぶ)の耳に舞い込んだのは、久方ぶりに下谷車坂町にある青木(あおき)道場に赴いた時だった。


 親信は以前、仕官を夢見ていて、剣術の鍛錬に重きを置いていたから、その頃はここへ通い詰めであった。

 しかし、仕官を諦めて手習所の師範を始めてからはたまにしか顔を出さない。他流試合があるからと呼び出されることがほとんどだが、この時は違った。呼びに来た門弟も詳しいことは知らないらしい。

 道場に来てみれば、門弟はまばらであった。


 何用だろうか。今日は休みだが、居候の幸之進(ゆきのしん)に子供たちを見てもらっているので、さっさと帰りたい。


「来たか」


 道場の上座に座った師範の青木兵衛(ひょうえ)が、入ってきた親信を目で捉えた。髷の細った老爺ではあるが、人柄は朗らかで、剣に打ち込み過ぎて加減できなかった親信は幾度も力を抜いてもらった。


「ご無沙汰致しております」


 前に他流試合に呼び出されたのは六月のことだった。

 正面に座って低頭すると、兵衛は親信の頭に向けて言う。


「子供たちは息災か? おぬしも男手ひとつでようやっとる」

「至らぬことばかりですが」


 その時、顔を上げた親信は、兵衛が何かを言いたげにしていることに気づいた。何事かと思いながらその先を待つ。


「――おぬしの細君は、本所にある遠野(とおの)道場の娘だったな?」


 亡き妻、沙綾(さや)の話を振ったのは、それが関わりのあることであったからだ。


「おぬしがそこで学んでいた頃の門弟に、上田(うえだ)小次郎(こじろう)殿がおっただろう? 腕を競い合った仲だと聞くが」


 急にその名が兵衛の口から零れたことに、親信は息をするのも忘れた。

 以前、小次郎の名が青木道場の誰かの口の端に上がり、ものの弾みで知己だと言ってしまったのを兵衛が覚えていたらしい。


 上田小次郎は、親信と同年の男であった。友と呼べる間柄だったと、親信は思っている。

 実直で、決して怯懦ではないのに虫も殺せぬような心優しさがあった。そんな男だから、他からは嘲られる親信を小莫迦にすることもなく接してくれていた。


 三本試合をすれば、親信が二本、小次郎が一本という腕だった。

 しかし、親信は沙綾との仲を認められずに道場を出た。顔を合わせたことはそれから一度もない。

 それでも、こうしてどこかの道場に連なっていれば、噂は耳に入るものである。


 小次郎が、とある旗本家に召し抱えられたと聞いた。嫡男の剣術指南役に抜擢されたのだという。

 中士の次男坊で、もともと人柄もよかった。きっと、皆が小次郎を祝福して送り出したことだろう。

 ただ、親信がその話を聞いた時、体中から力が抜けたものだった。


 小次郎は弱いわけではない。けれど、親信の方が剣術の腕だけを見れば勝っている。それなのに、召し抱えられたのは小次郎の方である。

 この時、親信はすでに家を出て沙綾と暮らし始めていて、後ろ盾は何もなかった。


 これは時の運ということなのか。それとも、人柄か。

 真面目で面白みのない親信よりも小次郎の方が子供に上手く教えられるのは間違いない。それはわかる。けれど、それならば親信はなんのために剣の腕を磨いていたのだ。


 小次郎の栄達に、親信は目の前が暗く閉ざされた気分になった。

 仕官など、親信には無理なのだと。


 だからこそ、諦める道を選べた。

 そのことを小次郎のせいにするのではないが、その名を聞くと苦々しい気分になるのだ。

 多分これは、認めたくはないが嫉妬というやつだ。


 ずっと、わざと思い出さないように、心の奥底で漬物石の下敷きにして浮き上がらないようにしてきた。小次郎の名は、親信にとってそんなものであった。


「はい。それが、何か?」


 なるべく、心を顔に出さないように努めた。兵衛は静かにうなずく。


「いや、な。その御家の嫡男が夭折したというのだ。それで、上田殿は暇乞いをされたとのこと」

「え――」


 輝かしく見えた友の行く末は、開かれてはいなかった。こんなにも早々に閉ざされていたのだ。

 先にそれを知れるわけではない。知っていたら、小次郎も受けたりはしなかっただろう。


 誰のせいともいえない不運だ。

 けれど、それがまるで親信が祝福してやれなかったせいという気になって、急に胸が苦しくなった。


「こ、小次郎はいずこへ? 実家に戻ったのでしょうか?」

「さあのぅ。儂も人伝に聞き知っただけなのでな」


 もしかすると、沙綾の実家なら詳細を知っているかもしれない。小次郎の性格からして、挨拶に行ったと思われる。


 しかし、二度と敷居をまたぐなと言われた親信では足を向けられない。反対を押し切って出ていったくせをして、沙綾を仕合せにするどころか死なせてしまった親信だ。許しを乞うことさえおこがましい。


 ――本当は、沙綾の実家に子供たちを連れていこうかと考えたことが何度かある。沙綾の死を詫びねばならないとも思った。

 沙綾を亡くしてすぐは、すべてが親信のせいだと誰かになじられたかったのかもしれない。体と心を傷つけて、そんなことでしか苦労ばかりかけた沙綾へ許しを乞えなかった。


 沙綾も実父に孫の顔を見せてやりたかったはずだ。子供たちの顔を見せれば、ほんの少しはほだされるだろうか。

 そう考えて、やはりそれはできないと思い直す。そんなことは何度もあった。

 だから、沙綾の実家へ赴くというのは無理なのだ。


 気になるけれど、結局のところ、小次郎に会って親信はどうしたいのだろうか。

 どんな言葉をかけるつもりでいるのか。今は何も考えられなかった。


 兵衛は、思いのほか親信が衝撃を受けているので、話さぬ方がよかったのかと悔いたのかもしれない。困っているように見えた。


「この世で起こることをあらかじめ知ることはできぬのだ。気の毒だが、な」


 親信は、無言でもう一度頭を下げると兵衛の元を辞した。

 帰り道、悶々としながら歩く。


 人の生は浮いては沈む。それを繰り返している。

 親信自身もそうだ。沙綾と思いが通じ合い、子供たちを授かった時は仕合せだった。その浮かんだ場所から、沙綾の死によって叩き落され、しばらくはなんの光も感じ取れなかった。


 小次郎もまた、喜びは長く続かなかった。それでも、今後また日の目を見る時が訪れるのだろうか。そうであってほしいと願いたい。

 親信は家に着くまで、長身をみっともなく丸めて歩いた。



     ❖



「ちーうえ、おかえりなしゃいっ」


 満面の笑みで迎え入れてくれた親太郎(しんたろう)の姿に、親信は不意に泣きたいような気分になった。男の子は女親に似るというが、本当に沙綾が親太郎と一緒に笑いかけてくれたような気がしたのだ。


「ああ、ただいま」


 人の心に敏感な幸之進なら、親信の様子がおかしいことに気づいただろう。それでも、子供たちの手前だからか、なんでもないように振る舞う。


「親信殿、今日は加乃(かの)殿と一緒に茄子を煮たぞ。美味くできたから、心して食ってくれ」


 と軽く笑っている。


「そ、その、少ぅし見た目がよくないのですが」


 加乃が心配そうに言う。そんな様子にも胸がいっぱいになった。


「いや、加乃が作ったのなら美味いはずだ」


 もやもやと考え込んでしまうけれど、家族といると、己のそんな小ささを忘れさせてくれる。小次郎にも家族があるだろうか。あればいいと思う。


 小次郎は今、この世に絶望していないだろうか。また新たな道を探せるだろうか。

 昔、共に学んだ友であるのだから、親信に何かできることがあるといい。

 今、どこにいるのかさえわからないのがもどかしかった。

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