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手負い侍、匿いて候  作者: 五十鈴 りく
壱❖始まりの三月
4/73

〈四〉

 長屋に帰るなり、家の前には長屋の連中がいた。戸は開いており、皆がざわついている。

 嫌な予感しかしなかったが、帰らないわけにはいかない。そっと歩み寄ると、親信を見つけたみちがいつもよりも控えめな笑み――いや、引きつった顔で声をかけてきた。


「ああ、チカさんっ。やっと帰ったねっ」

「――少々野暮用で出かけておったが」


 そう長く留守にしたわけでもないのに、この短い間に何が起こったというのだ。

 みちと仲のよい丹美(たみ)という長屋の女房も、両手をぱちんと合わせて言った。


「チカさんったら、御新造(ごしんぞ)さんに先立たれてからやっぱり寂しかったんですねぇ」

「うん?」


 寂しくないかと問われれば寂しいが、それがなんなのだ。

 軽く首を傾げると、座敷の方から涼やかな声がした。


「ほぅ。この位牌は御新造のものか。男一人で二人の子を育てておるとは大変だな」

「あら嫌だ、そんなことも知らないまま深い仲になったのかい」


 そんなことをみちが座敷に向かって言った。

 ――深い、とはなんだ。そもそも、幸之進はみちたちと何を話しているのだ。


 親信は、物言いたげにしている長屋の住人たちの隙間を縫って中へ入りかけ、戸口で固まった。土間でおろおろとしている加乃はまあいいとしても、幸之進は夜着から出た白い肌をさらしている。腹の傷が隠れる程度にはかぶっているが、着物を着ていないのは見ればわかる。

 その下の方で親太郎が寝ているのだが。


「駄目ですよぅ。子供の前では我慢しなくっちゃ」


 口ではそんなことを言うが、みちの目が笑っている。

 嫌な誤解を受けていることだけはわかった。妻を亡くした寂しさのあまり、念友を家に連れ込んだと。


「いやいや、お侍だって人の子だからなぁ。むしろ堅物の向井様がって考えたら逆に安心したぜ」


 などと、火消しの半治(はんじ)に言われた。


「ち、違――」


 しどろもどろになる親信に、幸之進は妙に色香のある流し目をくれた。


「昨日はそれがしにとって忘れられぬ夜であったが――」


 何故そういうおかしな言い方をするのだ。

 あまりのことに大声で叫びたくなった時、先に幸之進がけたけたと笑い出した。


「ぷ、はははははっ」


 見目麗しいくせになんて品のない笑いだと、皆がぽかんと口を開けた。それでも幸之進は涙を拭きながらひぃひぃ言って笑っている。しかし、そのうちに腹を押さえて呻いた。


「いたたたっ」


 腹の刀傷に響いたのだろう。同情の余地もないが。

 親信が冷めた目を向けているのに気づいた幸之進は、ぺろりと舌を出した。


「いや、親信殿があまりによい御仁なので、つい揶揄ってしもうた」


 よい御仁を揶揄うのが礼儀なのか。恩を仇で返すとはどういう了見だろう。しかし、幸之進はさして気にしたふうでもなく、夜着をさらにめくった。腹には親信が巻いた手ぬぐいとさらしがある。


「ほれ、昨日怪我をしてな、倒れていたところを親信殿に助けてもらったのだ。傷口を見たい者は寄ってこい」


 などと言って、手ぬぐいと包帯をゆるめてみせる。長屋の連中が家の中に雪崩込み、幸之進の傷口を皆で覗き込んでいた。


 ――なんだろうか、この状況は。

 親信は眩暈がしそうだった。


「おお、スッパリと切れておるな」


 他人事のような幸之進の声がした。お前の腹だろうに。


「本当だ。スッパリ」

「痛いねぇ」

「お侍様、刀を抜いて切り結んだんでございやすか」


 長屋の連中もざわざわしている。それなのに、当の幸之進はやはりあっけらかんとしていた。


「いや。抜いてもおらん。斬られただけだ」


 強そうには見えないが、見た目通り剣術はさっぱりなのだろうか。


「斬られたって、どこのどいつにっ?」


 それを親信も訊くつもりでいた。最も重要なことである。

 けれど、幸之進は首をかしげた。


「さぁ。知らぬ顔であったよ。何やらそれがしの言動が気に入らなかったのだろうなぁ」


 その辺で行き合った者と諍いの末に斬られたと、そんなことなのか。

 こうやって人をおちょくるようなことをするから、相手を逆撫でしてしまうのだ。真面目な侍を相手にふざけた態度を取れば、まず怒るだろう。いきなり斬りつけるとは短慮であるけれど、斬りつけたい気持ちは残念ながら少しだけわかってしまう。


「そりゃあ災難でござんした。うちに膏薬があるんで、あとで持ってきやす」


 半治が鼻の下を擦りながら言った。おや、と親信は目を瞬く。

 半治は火消しだけあって勇み肌である。侍であろうと気に食わぬ者は気に食わぬという(てい)でいる。

 むしろ、侍は嫌いなのだ。それが幸之進はあっさりと気に入られたらしい。年も幸之進の方がいくつかは下であるから気を張らないのかもしれないが。


「かたじけない。それがしは幸之進と申す。そこもとの名は?」

「へい。火消しの半治にござんす」


 そうかそうか、と幸之進はにこやかにうなずいている。しかし、いつまでももろ肌でいるから、へぶっ、とおかしな音を立ててくしゃみらしきものをした。

 親信は仕方なく買ってきた古着を持って、自分の家だというのに遠慮がちに奥に入った。


「――言われた通りに選んだ着物だ」


 思わずため息が出てしまったのは、今の親信の素直な気持ちである。

 そんなことは幸之進にはどうでもいいことであったのかもしれない。


「おお、ありがたい。ではさっそく――」


 誰がいようがお構いなしに着替えようとするので、皆の方が遠慮して部屋を出ていく。


「じゃあ、あたしは精のつくものを用意してくるよ」


 みちがそんなことを言った。


「ああ、あたしも」


 丹美もだ。他にも数人が何かを言っていた。

 幸之進はへらりと笑っている。

 ――本当に、なんなのだろうか、この男は。

 言いたいことがありすぎて、何から言っていいのかわからない親信であった。




「――おぬしの屋敷はどこだ。家人も探し回っておるはずだ。知らせに参らねばなるまい」


 親信が話しているというのに、幸之進は親信の方を向かず、古着に袖を通し終えるなり加乃に満面の笑みを浮かべてみせる。


「加乃殿、似合うか?」

「は、はい」


 加乃は眠い目をこすっている親太郎に着物を着せつつうなずいた。親太郎はまだぼうっとしている。

 粗末な古着に着替えても、幸之進は育ちがよさそうに見えた。親信がじっと見ていたせいか、幸之進はようやくこちらに顔を向けた。


「親信殿、似合うだろうか?」


 傷はまだ痛むだろうに、妙ににこにことしている。しかしだ、それが妙にわざとらしく感じられた。だから、親信は目を細めてさらに言った。


「屋敷はどこだ? 知らせに参ろう」


 すると、幸之進は笑顔のまま固まった。そうして、おもむろに腹の傷に手を当て、イタタタ、と身をよじって夜着を頭まですっぽりと被った。

 六つの加乃でもこんなことはしない。親信は苛立ちを抑えつつ、幸之進の夜着を剥いだ。


「なんだその態度は。知らせに行かれては都合が悪いとでも申すか」


 親兄弟が帰らぬ幸之進の身を案じているはずなのだ。この気楽さならば次男か三男の冷や飯食らいだとしても、どうでもいいはずがない。

 幸之進は、海老のように体を丸め、そうしたら本気で痛かったのだろう。顔をしかめてから仰向けに寝直した。


「悪い」

「は?」

「都合が悪いのだ」


 はぁ、とため息までつく。

 寝ころんだまま、幸之進は枕元の親信に目だけを向け、そうしてぽつりぽつりと語り出す。


「それがしは微禄の旗本家の生まれでな」


 着ていた着物の質からして、とても貧乏には思えない。妙だと首をかしげた。

 その話には続きがあった。


「それも、母の兄夫婦の厄介になっておったのだ。父親がおらなんだので」


 何やら込み入った事情があるようだ。親信は急に苛立ちが萎えていくのを感じた。


「まあ、苦労も多かったろう。それで知らせてくれるなと申すのか」


 未婚のまま子を孕んだ娘がその子供と兄夫婦の厄介になる。それは肩身の狭い話だ。

 しかし、それにしては幸之進は底抜けに明るい。どこかで箍が外れてしまったのだろうか。

 この話には続きがあり、それが幸之進の言いたかったことであった。


「いや、すでにそちらの家では暮らしておらぬ。母はすでに亡く、それがしは父親のもとへ行くことになってな、半年ほどそちらの屋敷で過ごしておったのだが――」


 そこでまたため息をついた。


「父親が誰だか知っておったのだな」

「知ってはいたが、本気にはしておらなんだ。それに、向こうには本妻と嫡男がおったので、今後関わるつもりもなかったのだが、その嫡男が夭折(ようせつ)したと。それがしの異母弟ということになるのだが、会ったこともないので気の毒だとしか思わんが」


 跡目がいなくなったのだ。そこで過去に孕ませた娘の子が男児であることを思い出し、引き取ったとそういうことか。


「迎え入れられた家は、実家よりも家格が高いのか」


 幸之進は口をへの字に曲げてうなずいた。


「もう窮屈でならん。どうしてもというから渋々家に入ったものの、ちっとも楽しくない。伯父上や伯母上は母が不憫だと、()たち親子には優しかったのだ。実家の方がよほど居心地がよかった。もう知らぬわとばかりに家を飛び出したのが二日前か。馬喰町(ばくろちょう)の旅籠は物騒でよく眠れなかったのだが、ここではよく眠れた」


 それは、眠たさが募りに募っていたからだろう。

 自由奔放に育った幸之進が厳格な家に馴染めず出奔し、その辺りの浪人崩れか何かと喧嘩になって手傷を負い、ここへ転がり込んだ。それが顛末らしい。


 帰れ、と思う。

 贅沢な話なのだ。窮屈だなんだと言っているが、相当な身分のある家の嫡男に収まったのだ。仕官したくともできなかった親信からしてみれば、腹が立つ話でしかない。


 幸之助の容姿を見れば、母親も美しかったのだろうと知れる。行儀見習いに行き、お手つきとなったが放り出されたというところだ。よくあることではある。

 母親は不憫ではあるけれど、その代わり幸之進はこれからその恩恵に与るのだ。母親も草葉の陰で密かに喜んでいるかもしれない。


 見目と装いのわりに性質がちぐはぐな理由も今の話から納得がいった。幸之進は、厳しく躾けられたのではないのだから、それも無理からぬことである。

 ただ、赤の他人である親信がそれに付き合わされるのはおかしなことだ。

 だから、帰れと思う。


「それでも、おぬしの家はその父上のところだろう。落ち着いたら戻ることだ」


 すると、幸之進は何故だか満面の笑みを浮かべた。どうしてそこで笑ったのか、それがまずわからなかった。


「そうかそうか。それは落ち着くまではここにいてもよいということだな」

「は?」

「では、そうさせてもらおう。かたじけない」

「い、いや、それは――」


 そういう意味で言ったわけではない。むしろ、早く帰れという意味である。

 怪我をしているから、すぐには無理でも痛みが引いたら出ていけと、そういうつもりだった。


 親信の言い方が悪かったというのか。それとも、なんと言ったところで幸之進は捻じ曲げて己の都合のよいように受け取ってしまうのだろうか。

 あまりのことに絶句して震える父を、加乃が心配そうに見ていた。親太郎も一緒になって見上げてくる。


「飯代は払うぞ。そこは案ずるなかれ」


 ハハハ、と笑って、それも傷に響いたのか、幸之進の声がかすれた。親信はどうしても冷ややかになる。


「その紙入れの中身は父上からもらった小遣いだろうに」


 家にいるのが嫌で飛び出したくせに、金はちゃっかりもらう。そういう筋の通らないことが親信は嫌いだ。

 しかし、幸之進はけろりとしている。


「うむ。もらったから()のものだな」


 そういう理屈らしい。どうにも嫌味が通じない。年が違うとこうもわかり合えないものなのだろうかと、少し虚しくなってきた。

 〈それがし〉もいつの間にか〈俺〉と砕けて地が出てきてしまっている。余所行きの顔は長く続かないらしい。


「親信殿、金は金だ。出所など気にしていては使えんよ」


 汗して働いたことのない若造が、とさらに腹立たしくなった。

 放り出してやりたい。――やりたいのだけれど、怪我人なのである。

 親信はぐっと堪え、いつもよりも低い声でつぶやいた。


「――怪我が治るまでだ」


 すると、幸之進はふと目元を綻ばせ、妙に大人びた笑みを見せた。


「ありがたい」


 その顔を見ると、もしかして本当に苦しくて仕方がなかったから出てきたのかと、そんなふうにも思えてしまう。頭ごなしに戻れと言うのは、事情を知らぬ者の意見ではあるのだ。

 少し絆されかけた親信だったが、幸之進はふぁあ、とあくびをしながら言った。


「ここは狭くて落ち着く」

「――――」


 やはり、出て行けと思った。

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