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手負い侍、匿いて候  作者: 五十鈴 りく
壱❖始まりの三月
3/73

〈三〉

 夜具の中から親太郎を出そうとしたら、互いのぬくもりが程よかったのか、親太郎までぐっすり寝ていた。夜具に潜って寝るなという方が無理だったのかもしれない。


 昨晩はよく眠れなかったのだろう。もう少し寝かせてやるべきか。

 親信は加乃と共に朝餉を平らげると、親太郎と若侍のために握り飯を作っておいた。

 加乃は若侍の方を眺めつつ、ひとつ息をついた。


「よく眠るお方ですね」


 本当に。

 半日眠っている。


「何があったのやらな」


 親信も苦笑するよりない。

 今朝の、たったあれだけのやり取りではあったが、害はなさそうに感じられた。いきなり子供を盾にして暴れたりすることはないだろう。


「お多摩殿に鉢を返してくる。すぐに戻る」

「はい」


 こっくりうなずいて加乃が送り出してくれた。親信は裏店の三軒隣の戸の前に来た。

 多摩の家は両親(ふたおや)と弟の四人暮らしだ。父親の卯吉(うきち)木挽(こびき)職人をしている。出職なので朝早くから出かけていて、すでにいないはずだ。

 親信は鉢を手に表から声をかけた。


「もうし、昨日の頂き物を入れていた器を返しに参ったのだが」


 すると、すぐそこの土間に立っていたのか、多摩が素早く戸を開けた。本当に、いくら狭い長屋とはいえ、かなり素早い。多摩は戸口で親信を見上げるなり、顔を赤くした。


「む、向井様、わざわざお越し頂かなくとも取りに伺いましたのに」


 多摩は確か今年で十九、長屋の花である。色白で円らな目をしており、何度か器量望みで縁談を申し込まれても、それとなく断ったと聞く。高望みをしている様子もないのだが、男慣れしておらず、まだ嫁に行く覚悟ができぬのだろう。その証拠に、こうして会うとはいつも顔を赤くしている。

 なんとも初々しいことである。


「いや、馳走になったのにそれでは厚かましいだろうに。あれはお多摩殿がこしらえたのかな? とても美味かった。礼を言う」


 すると、多摩はさらに顔を赤くして首を大袈裟なほどに振った。


「い、いえっ。少しでもお役に立てたならいいんです」


 その後、うつむいてぼそぼそと何かを言ったが、よく聞き取れなかった。親信はそんな多摩に鉢を手渡すと、表情を普段よりも和らげて言った。


「世話になってばかりも申し訳ない。今後、私の手が必要な時には遠慮なく呼んでくれ」

「そんな、わたしが勝手にしたことですから」


 それだけを言うにも熟れた柿のように真っ赤になる。相当な照れ屋だと、親信は苦笑した。


「いつもすまぬな。では――」


 そうして、親信は自らの住処に戻った。

 あの若侍はまだ寝ている――と思ったら、親信が戸を閉めた音で起きたらしい。身じろぎをした。ふぁあ、とあくびをする声が聞こえる。


「起きたか」


 呆れ半分でつぶやいた。加乃は行儀よく座敷に正座している。

 若侍は目を擦り、首だけを親信の方に向けた。


「いや、久々によく眠れた。礼を申す」


 寝不足だったらしい。


「その傷といい、色々と事情があるようだが」

「そうそう。事情が――と、この傷の手当てもそこもとによるところか? 重ね重ねすまぬ」


 妙に受け答えは軽いが、一応悪いとは思っているらしい。

 親信は生乾きの着物を取り、若侍の枕元に置いた。


「血を吸っていたので少々洗ったのだが、すっかり元通りとは行かぬな。まだ少し湿っておる」


 裸では話もしづらいだろう。とりあえず着せてやろうとしたのだが、若侍はその着物を一瞥すると顔を背けた。


「その着物は好かん。汚れたことだし、新しいのがほしい。古着で構わん。いや、古着がいい。そこもとが着ているような木綿の着物が着たい」

「――――」


 血の跡が少々あろうとも、上等な江戸小紋の小袖と袴である。それが気に入らないと。継の当たった襤褸がいいと。

 親信が絶句していると、若侍は急に朗らかに笑った。


「金は払うので、ちと買ってきてもらえぬだろうか? 迷惑のかけ通しだが、ここまで来たらついでと思うてくれ。ああ、この着物を売って、その金でこの子の着物も買えばいい」


 などと言って、夜具をめくる。寒そうに縮こまった裸の親太郎がいる。


「いや、うちの子のことは――」


 見ず知らずの若者に施されるのはさすがに嫌だった。眉根を寄せた親信に、若侍はへらりと笑った。


「施されるのは嫌か? しかし、そこもとは、それがしにはこうして施したではないか。あいこだ、あいこ。宿代としてその着物は受け取ってくれ」


 助けて寝床を貸した。それを施したと言うのなら、そうなのだろうか。若侍なりにこんな形で恩を返そうとしているのか。


 もしかすると、その着物を着ていると狙われるから、粗末な着物に着替えて目くらましをしようとしている――そうした意味合いもあるのかもしれない。


「――承知した。では、受け取ろう」


 親信がそう答えると、若侍は幾分ほっとしたように見えた。紙入れの中から小粒金を取り出し、それも着物の上に置く。


「足りぬといかんのでな。よろしく頼む」


 断るつもりはないのだが、親信はひとつ言ってやりたくなった。


「その前に、まずは名を名乗ったらどうだ?」


 すると、若侍はきょとんと目を瞬かせた。


「ああ、名乗っておらなんだな。それはすまぬ。それがしは幸之進(ゆきのしん)と申す」


 家名を名乗らなかった。そこにはなんらかの意味があるのだろう。


「私は向井親信だ。手習所の師匠をしながら、娘の加乃と息子の親太郎と共にこの長屋で暮らしておる」

「そうか、親信殿だな。加乃殿と親太郎もよろしくな」


 よろしく、とはなんだろうか。

 加乃は困った様子で、それでもよろしくお願い致しますと返した。本当に、何をよろしくするのだ。

 どうにもこの幸之進と話していると胸の辺りがもやもやする。とりあえず、詳しい事情は古着を買ってきてからだ。


「そこに握り飯がある。腹が減っているなら食うといい。――加乃、親太郎にも食わせておいてくれ」

「は、はい、いってらっしゃいませ」


 幸之進は悪人ではなさそうだが、善良なのかと問われるとよくわからない。それでも怪我をしているから、害はない。




 古着といえば、やはり柳原(やなぎわら)土手か。あそこには夥しい数の床見世(とこみせ)が軒を連ねている。

 だが、そこまで遠出をしなくとも古着屋はある。古着を吟味するよりもさっさと戻った方がよさそうだ。

 とりあえず親信は近場の古着屋へ足を運んだ。


 幸之進は何を着せても似合いそうだ。着るものを選ばず、何を着ても誂えたようにして着こなすだろう。それくらい、姿はよいのだ。

 ただ、目覚めて見ると、思っていたものとは少々――いや、随分違うのだが。


「いらっしゃいませ。何をお求めでしょうか。それとも、お売りに来られたのでしょうか」


 好々爺の主がにこやかに迎え入れてくれた。看板がずれて傾きかけたような店構えだから、長く商いを続けているとみえる。


「両方だ。これを売って、その銭で古着を買いたい」


 そう言って親信が幸之進の着物を主に手渡すと、主の顔は途端に曇った。まだ湿っていて持った具合が気持ち悪かったと、そんな理由からではないだろう。古着屋の主は、着物の不自然な切込みと僅かに残った血の跡と匂いに気づいたのだ。


「着物自体はよいものでございますが、少々障りがございますなぁ」


 やんわりと言われた。

 親信が追いはぎでもしたかのようではないか。思わずため息が漏れた。


「その着物の持ち主は生きておるから心配するな。それを売って古着を買ってこいと申したのはその当人だ」


 嘘か真か、商いを長く続けている主には見抜けたのだろうか。安堵が目に見えた。


「それはそれは。お武家様はもしや、王泉寺(おうせんじ)で手習所を開かれている向井様ではございませんか?」

「そうだが」


 それを聞くと、古着屋はさらに笑みを見せた。


「上背がおありのお侍様だとお聞きしておりましたので、もしやと思いまして。いえ、孫娘のお宇美(うみ)がお世話になっておりますので」

「ああ、左様で」


 宇美はのんびりとした優しい子で、面倒を起こさないので助かる。

 古着屋はうんうんとうなずいた。


「向井様のお持ち込みでございます。お買い致しましょう」

「助かる。それでは、その銭で古着を――今、私が着ているような木綿でよいとのことなので、ひと揃え頼みたい。あとは三つの息子の着物も。足りるだろうか」

「むしろ釣り銭が出ますな」


 シャッと小気味よく算盤の珠が擦れる音がする。


「小紋染めでございますから、多少汚れていようとも上物でございますよ」

「そうなのか」


 そんなものを着ていた幸之進は、やはり上士の子息なのだろう。しかし、それにしては気安いというか、何かが妙ではある。

 などとここで考えていても始まらない。親信は古着を受け取り風呂敷に包むと、釣り銭の小粒を受け取って帰った。

 そして――。


寺の名前などは若干もじって使っております。フィクションですのでこの寺は実在しておりません(*´з`)

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