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手負い侍、匿いて候  作者: 五十鈴 りく
肆❖小判の六月

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24/73

〈一〉

 親信(ちかのぶ)は、つい数年前まで仕官を夢見ていた。どの藩がいいということもなく、仕官できるならば少々辺鄙なところでも構わなかった。江戸で伝手を作り、どこかの藩が使ってくれるようになればと思っていた。


 親信が沙綾(さや)の実家である道場を出た後も、この界隈の道場のいくつかには顔を出していた。主に世話になっていたのは、青木(あおき)道場という、下谷(したや)車坂町にある剣術道場である。



 六月朔日。

 三日(さんじつ)の休みであった親信だが、急な来客があった。それは、青木道場の門弟、松本(まつもと)大九郎(だいくろう)である。


 年は確か二十一か二か、その辺りだ。毛虫を思わせる太い眉、円らな(まなこ)、丸い輪郭、しかし首は長く、何かに例えられそうで何に例えていいのかわからない顔立ちの男である。

 ――と、そんなことはいいのだが、剣術の腕前は中の下といったところか。それでも実直で義理堅く、道場では場を和ませ、皆のよい繋ぎ役となっている。


 親信が仕官を諦めて手習所の師匠になると決めてから、道場へ通う頻度が極端に下がった。不義理ではあるが、木刀を振るっている場合ではなくなったのだ。剣を筆に持ち替えて、親信自身も学ばねばならなかった。


 正直に言うと未練はあり、剣を使っている時の方が己らしくいられた。

 しかし、それでは食っていけない。気分転換に、たまには道場にも顔を出せたらとも思うのだが、一度足を向けると、どうしてもまた武士として剣は捨てられないという気分になる。


 この太平の時代にそうした古臭い考えは要らぬと思うのに、だ。

 ただ、もういい加減にわかっている。

 どれだけ剣が使えようとも、親信は宮仕えには向いていないのだ。


 頭が固く、融通が利かない親信では、綺麗事では済まされない武家の世間を生き抜いてはいけない。

 上役にも、あの堅物の値打ちは、何かあった時に罪をなすりつけて腹を切らせるくらいかと思われてしまいそうだ。


 武家には武家の苦労がある。それならば、子供相手の手習所の方がまだいいのかもしれない。

 薄々は、仕官できなかったことでむしろ汚いものを見ずに済んだのではないかという気もするのだった。それが強がりだとしても。


「松本、久方ぶりだな。壮健であったようで何よりだ」


 この大九郎は下谷御徒町(おかちまち)の、文字通り徒組(かちぐみ)である。下士ではあるが、浪人の親信に偉そうにされる(いわ)れはない。

 それでも、この大九郎は親信の方が年長であること、剣術の腕が勝っていることで親信に敬意を示してくれていた。

 その大九郎だが、今までにこうして長屋を訪ねてきたことは一度もない。珍しいことである。


 この時、居候の若侍、幸之進(ゆきのしん)は隠れるところのない狭い長屋の中、柏餅のように夜具に包まり、丸くなっていた。

 幸之進は刀を差した相手と揉めて斬られ、親信のもとに逃げ込んできたのである。


 別に大九郎が幸之進を斬りつけた相手ではなかろうに、二本差しを見るのも嫌なのだろうか。助けた親信は別として、刀を差した男に用心深くなっているのかもしれない。


 親太郎は何かの遊びだと思ったのか、そんな幸之進の上に嬉々として上っていた。加乃がそれを小声で制しながら止めにかかる。

 大九郎はそんな子供たちは遊んでいるようにしか見えなかったのだろう。それほど気にしたふうでもなく、入り口で親信だけに顔を向けていた。


 上がっていけと言いたいところだが、幸之進があの調子だ。あまり長居させると、幸之進の息がつらいかもしれない。

 ただ、大九郎も急いでいるふうだった。


「ご無沙汰しておりました。約束もないまま急に押しかけて申し訳ないのですが、師範から急ぎ、向井殿をお連れするようにと言づかっておりまして――ご同行願えますか?」


 師範からの呼び出しは急なことが多い。親信に考える隙を与えないためだろうか。

 そして、義理堅い親信は断れないのである。


「うむ。――すまぬが、出かけてくる。加乃、後を頼む」


 やや声を張ったのは、夜具の中に包まっている幸之進にも聞こえるようにだ。

 加乃は親太郎を抱き締め、うなずいた。


「はい。父上、いってらっしゃいませ」


 大九郎と共に外へ出ると、後ろ手で障子を閉めた。侍と関わりたくないのなら、幸之進がついてくることもなさそうだ。あれが来るとろくなことにならないのでほっとする。

 大九郎とは町の中を歩きながら話した。


「師範からの用というのは、他流試合か?」


 今までの呼び出しの理由がほぼそれであったのだ。鈍い親信でもいい加減にわかる。

 大九郎は照れ臭そうに笑った。


「いつまでも向井殿に頼ってばかりで申し訳ございません。しかし、道場にも体面がありますので、看板に傷をつけるわけには行かぬのです」

「まあそうだな。しかし、師範代がおられるだろう?」


 師範代は道場主である師範の息子で、親信よりもひとつ年上の男だ。師範代、青木兵吾(ひょうご)は、猫のように素早い男なのだが、いかんせん小さい。小さいから素早いのかもしれないが。


 技は見事だが、手の長さという不利を抱え、親信に勝てたためしがない。恵まれた体格をした親信を、兵吾は嫌っている。目に見えて嫌いなのだとわかる。

 だからあまり近づかないようにしているのだが、気づくと向こうから忍び寄ってきて近くをちょろちょろしている。本当に、猫のような男なのだ。


 大九郎は、ええと、と言葉を濁した。

 その様子から、兵吾が当てにならないのだというのが伝わる。


「出稽古でお留守か?」

「い、いえ、食あたり、です」


 食あたりと来た。一体何を食ったのやら。

 最近暑い日が続いているから、なんでも腐りやすい。子供たちに食べさせるものも気をつけねばと気を引き締めた。


 まあ、食あたりだろうと差し込みだろうと、いないものは仕方がない。

 師範代がいないとなると、皆も心もとないはずだ。さすがに全員で負けるわけには行かない。

 相手を見て、親信が師範から名指しされることもあれば、何もせずに帰ることもある。なるべく親信に頼らずに終えられるのならいいと考えてのことだろう。


 親信も以前ほど熱心に体を動かしてはいないから、絶対に負けないなどという自信はないのだが。

 今回も無事に終えられるといいけれど――。

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