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手負い侍、匿いて候  作者: 五十鈴 りく
壱❖始まりの三月
11/73

〈十一〉

 その日、手習所が終わる頃に貞市の養い親が迎えに来た。子供たちが皆帰り、貞市が最後に残ったのを見計らって姿を現す。


 貞市が入門する時に束脩(そくしゅう)を納めに来たし、席書(発表会)の折にも何度か顔を合わせている。その時は実の親子だと思っていたので、似ていないとしてもあまり気にしていなかった。


 体格のよい貞市に対し、母親は子供のように小柄だった。

 何もない日に迎えに来るとは珍しい。


「おばさん――」


 貞市が、いつもより(けん)のない目をしてつぶやいた。けれど、母と呼ばれずに〈おばさん〉と、子であるはずの貞市に呼ばれた途端、貞市の養母は顔を赤らめた。

 それは、そのひと言で母子の関係が親信にも伝わってしまったと思ったからだろう。羞恥からか、思い悩んでのことか、ほんのりと目に涙が滲む。


「昼餉を食べに帰ってこないものだから、先生から食止(じきどめ)を食らったんじゃあないかって。――おなか、空いたでしょう?」


 貞市の養母はそれでも優しかった。悪戯が過ぎて体罰を食らったであろう子供を案じてここまで様子を見に来たのだ。


「昼飯抜きにされたと思った? 違ぇよ。逆だよ。先生が握り飯を分けてくれたから、腹がいっぱいになって帰らなかったんだ」


 今まで、そんなことは一度もなかった。不安になるのも無理はない。本当だろうかという目が親信に向く。

 親信は苦笑した。


「少し多く作りすぎたもので分けただけなのだが、心配をかけてしまったようで申し訳なかった」

「そ、それならいいんです。先生、いつも貞市がお世話をかけます」


 貞市の母は、心苦しそうに頭を下げた。手習所でも、家と同様に貞市が荒れていると思っているようだ。気にはしていても、親子としての関係がまだ定まらないから、義母は貞市を叱れないのだ。

 この養母は己を責めてばかりいそうだ。


 深々と頭を下げて一向に上げようとしない貞市の養母。貞市は、堂の隅に隠れている幸之進の方を向いた。幸之進はとっさに隠れたらしい。

 その隅から口をぱくぱくと動かし、貞市を励ましている。


 ――優しさには優しさで返せ。

 幸之進は貞市にそう教えた。貞市は、自分のために頭を下げてくれる養母に何を返すつもりなのだろう。


 戸惑いながらも、貞市は養母の隣に近づくと、その手を取った。


「帰ろうよ」


 貞市は、まだ実家に帰ることを諦めきってはいない。

 それでも、突き放して間を取り続けた今までとは何かが変わったのかもしれない。養母は驚いたふうに目を見開く。


 貞市は、養母の驚きに思わず手を引いてしまったけれど、今度は養母の方から手を伸ばし、貞市の手を握った。貞市は振り払わず、ただ少しうつむく。


「貞市、また明日な」


 もどかしい二人のやりとりを、親信は歯がゆいような、こそばゆいような思いで見守りながら声をかけた。貞市が小さく、はい、と答えたのが聞こえる。


 義母は何度も何度も頭を下げながら去った。二人の背中が遠ざかると、幸之進がひょっこりと顔を出す。


「貞市にとって、何が一番なのかは本人にしかわからぬところだがな、己が納得できるところに落ち着けたらよいな」


 本当にそうだ。

 教え子たちには皆、仕合せでいてほしい。


 満ち足りた笑顔で貞市たちが帰った方角を眺めていた幸之進に、親信はぼそりと言った。


「――時に、おぬしはまだ帰る気にはならんのか?」


 片づけをしながらそれとなく訊ねてみると、幸之進は動きを止めた。そうして、またわざとらしく脇腹を押える。


「もうそれはよいというに。貞市には偉そうなことを言ったくせに、おぬしは父上のもとへ戻らず逃げておる。それはどう釈明するのだ?」


 すると、幸之進は見る見るうちにしょんぼりと肩を落とした。そんなふうにしおらしくされると、親信の心が痛まないでもない。


「親信殿には迷惑のかけ通しだ。早く出てゆけと言われても仕方がない」

「う――まあ、な。おぬしもそれこそ、父上のところが嫌ならば実家に戻れるようにかけ合ったらどうなのだ?」

「そうしたいのは山々だが、俺が実家に逃げ込んだら迷惑がかかる。だから、実家は諦めるしかないのだ」


 微禄の貧乏旗本家だという。上士の父が働きかければ、たちまち潰される。あまりにも立場が違いすぎるのだ。幸之進は実家に迷惑をかけたくないと、すんでのところで思い留まったらしい。

 もしかすると、気の毒――なのかもしれない。


「しかしな、親信殿になら迷惑をかけてよいと思うておるわけではない。ただ、本当に行く当てがないのだ。すまぬが、もう少しだけ頼む」


 切実な顔をしてそんなことを言うから、嫌とは言えない。

 幸之進といると苛立つことも多いが、根は悪い男ではないのだ。親太郎や貞市が懐いたのがその証である。


「もう少しだけなら、な。――よし、帰るぞ」


 親信は机を片づけ、手についた埃をぱん、と叩いて落とした。

 幸之進はその途端に、へら、と笑った。


「うむ、帰ろう。加乃殿と親太郎が待っておる」


 幸之進を叩き出したら、親太郎は怒るだろうか。怒る気がする。

 それを、幸之進を置く理由にしてもよいだろうか。まだ傷も完全には癒えていないことだから、いい気がする。


「親信殿、夕餉には豆腐が食いたいな」

「そうか」

「浅利もよいな」

「うむ」

「甘い小豆粥も食いたい」

「――」

「どうせ小豆なら餡でもいい。あんころ餅にしようか」


 うるさい。

 静かだった日常が、この若侍のせいで騒がしくなった。


 こんな男でも、出ていけば子供たちは寂しがる。

 それこそが、幸之進の策略かもしれない。



     【 壱❖始まりの三月 ―了― 】

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