1
『海に一人で行ってはダメよ』
母さんは口を酸っぱくして私によく言い聞かせた。
海が好きな私が不満げな顔をすると、母さんは決まってこの言葉を発する。
『人攫いが出るから絶対ダメ。それに波にさらわれたら大変だわ』
そして、私が渋々頷くまでが一式だった。
母さんと喧嘩した時、やる事がなくて退屈な時、海のさざ波の音が私を誘惑した。
けれど、私は母さんの言いつけを破ることはなく、一人で海に行くことはなかったが、それだけでは安全意識が欠けていたのだと思い知らさせた。
母さんの言葉は正しかった。
あの日、私達が海に行かなかったら、今は違う現実を生きていた、そんな気がしてならない。
煌びやかだが無機質で冷たい印象のこの場所は、より一層私の後悔の念を強めていった。
***
「マリー、行くぞ」
「は?え?ちょっと……!?」
突然、近所のガキ大将ケインが家に来るなり、私を連れ出そうと腕を掴んで引っ張って来た。
このまま家人に何も言わずに外に行けば、大ごとになって村全体の大捜索に発展する可能性がある。
そして、無事に見つかり、母さんに怒られる所まで想像がつき、顔が青ざめる。
私は慌てて玄関の戸を掴み、ケインの力に抵抗した。
というか、力が強すぎる!
玄関の凸凹が手の甲に食い込み、ギリギリと私を苦しめる。
なのに、元凶は私の抵抗に首を傾げながら、馬鹿力でぐいぐい引っ張るのをやめない。
もう!いい加減にして!
無遠慮に引っ張ってくる背後をキッと睨め付ける。
「何してんだマリー?新しい遊びか?もういいだろ。行くぞ!」
「ああもう、引っ張るのをやめて頂戴!それから、突然家から私が居なくなったら大事になるでしょ!なのに遊びって、意味分かんない。アンタの思考回路どうなってんの!?……ほんっと馬鹿なんだから」
「ああ!?なんだと!」
「馬鹿って言ったの!馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
「んだとテメエ~~っ!!」
「ーーあら、何をしているの?」
激昂したケインが私の腕を強く握ってきて、痛みに顔をしかめた時、騒がしさに駆けつけた母さんが奥から現れた。
突然の乱入に停止する私達に母さんは「まあ!」と嬉しそうに目を輝かせた。
何故かすごく嫌な予感がする。
「2人は本当に仲が良いのね」
「「はあ~~!??」」
「まあ!息もピッタリね!」
今のどこを見たら、仲が良いと言えるの!?
絶賛喧嘩中ですけど?
「母さん何言って……というか離してよ」
「ああ……」
母さんの理解不能な言葉の前に、未だ捕らわれた腕が気になり伝えると、あっさりと腕が離されたが、思いの外力強く掴まれていたらしい。
ズキズキと掴まれた箇所が痛んだ。
コイツ……信じらんない!
私は怒りに任せて、思いっきりケインの足を踏みつけた。
勿論、グリグリ踏みつけるのも忘れない。
「って~~、いきなり何すんだよっ!」
それはこっちの台詞だ。
誘拐犯の如く連れ去ろうとした上、ご自慢の握力で、私のか弱くて繊細な腕を力任せに握りやがって!
それ見知らぬ人にやったら犯罪だぞ!?
怒りが収まらぬまま、大きく顔を反らして怪力馬鹿の事など視界に入れないようにする。
「こらっ!マリー、ケイン君に謝りなさい!」
「嫌!だって母さん、元はと言えばコイツが思いっきり私の腕を掴んできたのよ?」
「そうね、それはケイン君にも非があるわね。けれど、その後のマリーの行動はいかがなものかしら?」
「うう……そりゃあ、踏んだのは悪かったけどさ」
「悪いということは自覚しているのね?なら、しなければならない事は何かしら?」
「ぐっ……」
悪い事をしたら謝る。
それは、私が悪いことをする度に、母さんが口を酸っぱくして言ってきた言葉だ。
その教訓は正しいと思うから、ケインに謝ろうとは思う。
けど、ケインが先に仕掛けてきたのに、私が先に謝るなんておかしくない?
「マリー?」
下らない自尊心の葛藤で謝るのを渋っていると、母さんが追い打ちをかけてくる。
母さんの無表情になった顔を見て、血の気が引いた私はケインに向き合った。
「ケイン痛かったよね?ごめん……」
「いや……俺も強く掴んで悪かったな」
何となく気まずくて、お互い顔を合わせなかった謝罪だが、母さんは大いに満足したようだ。
両手を組んで、潤んだ瞳で私達を見ている。
「二人とも偉いわ!互いの非を認め合うなんて、なんて良い子達なんでしょう。母さん、……なんだか感動しちゃったわ」
うわ~、母さんの感動劇場が始まってしまった……!
これは面倒な事になった。
私はこの場からの逃亡を図る事にした。
「えっと、母さん……ケインと遊びに行って来るね?」
「ええ、行ってらっしゃい……。ケイン君、マリーをよろしくね……ぐすっ」
「……なんか今生の別れみたいだな」
本当にねえ……。
「マリーは必ず、俺が家まで送り届けてやるからな、おばさん」
お前も乗るな!
ああ、もう母さんってば、あんなに目を潤ませて……。
今の母さんの中では、感動の暴風雨が吹き荒れていることだろう。
「ケイン君……」
「この茶番は一体何?」
冷ややかな言葉で、感動劇場に水を差し、舞台をめちゃくちゃにした私はケインの手を掴み歩き出した。
「暗くなる前に帰るのよ。行ってらっしゃい、マリー」
振り向くと、涙を拭った晴れやかな笑顔の母さんが手を振っていた。
「行ってきます」
次第に小さくなっていく母さんに軽く手を振り返して、私は家を離れた。