目覚めの朝
光が閉じた瞼を突き抜けて、瞳に痛みを与えてくる。
突き刺さる様なその痛みに男は意識を呼び起こされた。
「う、うぁあ……」
発された声は亡者の呻きの如く生気にかけていた。
光から逃れようと声の主が身体を動かすと
「ぐぇっ」
ドスンという鈍い落下音とひき潰されたカエルに似た声が続く。
「あ、ててて……はぁぁ」
打ち付けた腰をさすり、男が瞳をゆっくりと開ける。
開けた視界の先には太陽が海から顔を出し始めた水平線が飛び込んできた。
「あれ? ここは……どこ、うぇ、気持ちわりぃ……」
遠くで聞こえる海鳥の声だけがむなしく響いた。
「ザクス! そこになおりなさい!!」
女性の怒声がまだ店主しか起きていない宿屋の食堂に響き渡った。
死者さえも驚いて跳び起きそうな堂に入ったその怒鳴り声に、朝食の準備をしていたのであろう宿屋の主人も思わず身がすくんだ。
カウンターの奥の調理場から陶器の割れる音がその事を声を荒げた女性にも伝える。
物が割れた音に女性が僅かばかり悪い事をしたと顔を顰める。
しかし、それも長くは続かなかった。
「ティア、頼む……頼むから、大声はやめてくれ……頭が割れて死にそうだ」
それもこれも女性、ティアの目の前で地べたに這いつくばり、かっこよくはないが親しみやすさがにじみ出る顔を土気色にしている男、ザクスが原因だ。
大柄で筋肉質な背格好と傍に置かれた大剣が、ザクスが戦闘を生業としている人物だと一目で示していた。
対するティアは女性としてやや高めの背丈に、すらりと伸びた手足。その手先は肉体労働を知らない無垢さを思わせる。
腰まで伸びる濃紺の髪は湖や海の底を思わせる深い色合い。そして綺麗と手放しに称賛できる顔を今は怒りに歪めていた。
それをこっそり覗き見た店主は、美人が怒ると怖いと言うのは本当だったかと慄き、背後で朝の仕込みをしている妻を見てホッとしていた。
落ち着く顔だ、と。
「死にそう? 死にそう死にそう死にそう……ねぇ、ザクス?」
調理場から宿屋の女将さんの、人の顔見て馬鹿なこと考えてないで仕事しな、という声と何かを蹴りあげる鈍い音がするもザクスとティアは気にすることなく会話を続ける。
「どうかしたか?」
「貴方はどうして裸足なの?」
「あ? お、ホントだ。靴がねぇ……道理で足が痛むわけだ、いやぁーまいったまいった」
今初めて気が付いたと純粋に驚きを示すザクスの態度に、ティアは頭痛を覚え始める。
引きつりそうになる顔をどうにか落ち着けようとこめかみを指でぐりぐりと撫でつける。
目の前の大ばか者を直視しない様にして、心を落ち着け再度問い掛けた。
「何処で落としてきたかの目途位は付くんでしょうね?」
発された声は怒りで僅かに震えていた。
「あー……どうだっ——嘘嘘!! 思い出す、今思い出すから!!!」
覚えがない、と馬鹿正直に告げようとしたザクスは眼前に産卵期のドラゴンを幻視した。
湧き立つ怒りに呼応した魔力が圧を増し、チラチラと時折可視化している現状が危険性を如実に示していた。
殺される、思い出さないと殺される。二日酔いで鈍い頭でさえ明確にその事を自覚した。故にザクスはひたすら記憶の糸をたどっていく。
確か昨日は近くの酒場で飲んでいてと、比較的鮮明な記憶から時間を進め、記憶を刺激していく。
だがあの店の何々という酒が美味かった、別の店のこの酒もうまかったと垂れ流される飲酒履歴に、早くもティアは眩暈を覚え始めた。
そしてその頃には、他の客たちもぽつぽつと活動を始めたのか食堂に顔を出し始めている。
しかし、食堂の中心で正座する男と怒り心頭の女性を見るや否や、巻き込まれては敵わないと離れた席に陣取っていく。
「で酒を飲んで、それでそこにいた奴と大層盛り上がって……それで、えっと確か……そうだ、彼奴がドワーフの火酒を持っていると言って。貴重品だからと言われたんだが、どうしても飲みたくて……それで、確か……」
そろそろ確信に迫ってきた記憶にティアは嫌な予感を覚える。
具体的には初めてお使いに行かせた子供がお菓子袋を持って帰ってきたようなどうしようもない手遅れ感を感じ取っていた。
「確か、どうしたの?」
「それで、えーっと、く――」
「あ、旦那、昨日は良い取引させてもらいましたね! 水精霊の靴、大事に使わせて貰いますよ!!」
ザクスの言葉が遮られた。遮った相手は、いましがた二階の客室から降りてきた一人の男。
カラッとした気持ちのいい笑顔をした男がザクスに向かって手を振っていた。
そしてその男の顔を見て、ザクスの記憶も一気に蘇った。
「そうだ、ドワーフの火酒一瓶と靴を交換したんだった!!」
「そうっすよ、旦那。寝ぼけてんすか? 旦那から持ちかけてきた話じゃ……あぁっと! お忙しいみたいなんで挨拶はまた今度って事で、旦那さいなら!!」
走り去ることシルフの如し。そんな言葉がぴったりと当てはまるほど素早く男が宿屋から出て行った。
惚れ惚れするほどの遁走っぷりにザクスは思わず男の姿を目で追いかけた。
「ザクス?」
追いかけたせいで視界から外れたティアの声が後ろから聞こえてきた。
澄み渡ったいつもの声とはまるで違うその声に、ザクスの身体は悪寒を感じる。
「ねぇ、ザクス。水精霊の靴がいくらするか知っているのかしら?」
ティアの質問に喉が引きつる。
「ねぇ、私に教えてくれないの、ザクス?」
重ねられた質問に脂汗が流れ出した。
答えを知るだけに、ザクスの中の絶望が大きくなっていく。
ちなみに答えは値段がつけられない。
名前の通りに水精霊の靴は作って出来る物ではなく、水精霊自身が加護を込める事で初めて出来上がる物。
故に安定して作れるものでもなく、買いたいからと買えるものではない。
値がつけられない希少品。
「ねぇ」
優しい猫なで声が逆に怖気を感じさせる。
ザクスは避けられない運命に覚悟を決め、ティアに向き直る。
「……ティア」
「なに?」
「ごめんちゃい」
言うや否やぺろりと舌を少しだしておどけて見せた。どうせ結末は変わらないのだからと精一杯の茶目っ気を見せる。
空気が、凍った。
「だいの大人が舐め腐ってんじゃねぇ、ぶち殺すぞぉぉおお!!」
言葉と共にティアが蹴りを放ちザクスを吹き飛ばした。
刎ね飛ばされたザクスが地面と水平に吹き飛び、扉を突き抜けて通りに転がっていった。
その細足のどこに大の男を吹き飛ばす力があるのか他の客たちは不思議で仕方ないと頭を捻る。
そして宿屋の店主は後に語る。
彼女の蹴りはとても美しかった。それはそれは何度も繰り返された動作であるかの様に洗練されていた、と。
「う、きも、おぇ」
「吐いてんじゃないわよ! あんぽんたん!!」
ザクスとティア、二人の一日がまた今日も始まった。