返却
けっきょく、オレの部屋に偽札の束を置いた人物はあらわれなかった。
ひどく不可解な事件だったが2、3日もすると興味が薄れてきた。これが本物の札束だったら、どんなによかったか。
まったく現金な話だ、札束だけにね。いや偽札だけにね!
かと言ってこの出来のわるい紙束を捨てることもできなかった。だから押入れの奥深くに仕舞うことにした。
そうだ1年待とう。
ちょうど来年の春に仕事が変わることになるから、それまで待って、それでも偽札の持ち主があらわれなければ処分しよう。
そう考えると気持ちがすっと楽になって、4月1日以来3日ぶりに安眠することができた。長いエイプリルフールだった。
時間は粛々と流れて行った。
春が終わり夏がきて、うっとうしい長雨のつづく秋になり、寒い寒い冬がやってきた。
その冬も終わり春の訪れを感じる季節……ってゆうか、2017年3月31日はめっちゃ寒かった。
4月を迎えるころにめっちゃ寒いのは、あるあるだ。
施設でのオレの業務は滞りなく終了した。最後に入館証を受付に返却すると、急に寂しさがこみ上げてきた。
うっそー。べつに感慨はない。ひとつの現場が終わり、またつぎの現場へと向かう。オレは渡り鳥。
31日の夜は、オレが所属している派遣会社の営業マンと新宿で飲んだ。
営業マンの名は富田といって、いわばオレの強力な代理人だ。あの古ぼけた施設での業務は今日で終わってしまったが、富田がまたべつの仕事を取ってきてくれるだろう。
だから、この先のことはぜんぜん心配していない。ちなみに今日は富田のおごりである。いや今日「も」か。たまらない。
同世代の富田はハードロックやヘヴィメタルが好きだ。オレも好きだ。ってゆうか、オレらの時代はそんな音楽しかなかった。死に絶えた音楽である。
そんなわけで、串焼きの店で飲んで食べた後でゴッドというメタル・バーに行くのが恒例になっている。
狭い店内はメタルの轟音で溢れている。正直、会話の声がほとんど聞き取れない。それでも楽しかった。
酔いも回りいい気分で帰路に就いた。
明日は仕事がない。いや明日からは仕事がない。しばらくは、それもいいだろう。それが何よりの馳走です。違うか。
……ウソでしょ?
翌朝目覚めたオレは、ベッドの上でけっこう大きな声でそう言った。
身体中の血が逆流するかのように目眩がする。昨夜の酒のせいではない。昨日はたのしい酒だった。
オーケー、オーケー。ひとつずつ行こう。行ったろうじゃない。
まず、枕元に得体のしれない紙束が2ブロック置いてある。去年の再現じゃないですか!
これはあれか、毎年恒例の行事なのか? なぜオレの部屋に偽札の束を置く。何のメリットがある?
……まあまあ、百歩譲ってそれはいいですわ。世の中にはそういう性癖の人もいるのだろう。
他人の部屋に忍び込んで偽札を置いて行くみたいな。毎年、みたいな。それで興奮する人もいるのかもしれない。
オレが目を見張ったのは偽札じゃない。枕元にもうひとつ、驚くべきものが置いてあったのだ。
それは見慣れた代物だったけれど、ぜったいここにあってはならないモノだった。それはオレがあの施設で5年間貸与されていた入館証だった。
なぜだ、なぜこのカードがオレの部屋にある。これは昨日、返却したはずだ。
ついうっかり持って帰っちゃいました、てへ、とかあり得ない。だって昨日が業務最終日だったんだからね!
このカードを現場にお返しすることが、いわばオレの最後のお勤めである。逆を言えば、カードを返却しないかぎりオレはあすこから解放してもらえない。
ボロっちい施設だったが、そういうセキュリティ的なことだけはきちっとしていた。お客様から資産とか情報とか、いろいろ預かっていたわけだから……。