12
誰にも見られていないことを確認してから、恭二は紙切れを丸める。一階の女子トイレに行き、それを便器に流す。
自分をもっとも理解しているのは自分自身――恭二もそうだ。四年前だろうが四年後だろうが変わらない。だがそんな自分が書いたはずのメモは、彼にも理解し難いものだった。
自分で言うのもなんだが、恭二は己の身の程というのを弁えているつもりだ。それはひとえに自己評価の低さ故のことで聖美に関しても特別な想いは抱いてはいたものの、何をするでもなく現状に甘んじる結果に落ち着いた。
(つまりはヘタレなだけなんだよな、僕は)
そんな自分が聖美を放課後に呼び出すほどアクティブなはずがない。自分の短所にばかり無駄に自信があり、恭二も自分で考えているうちにへこみそうになってくる。
(……ということは、あの『僕』は『僕』じゃない)
恭二でなければ聖美でもない。それは以前の反応が物語っている。
(それを知るには、やっぱり直接会うしかないわけか)
不安はあるものの『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という諺もあるとおり、何かを欲するには多少の危険は覚悟するべきなのだろう。
朝からあんなメモを読まされたせいで、学校が終わるまでほとんど授業に身が入らなかった。
放課後を迎えた恭二は友人の誘いを適当な理由をつけて断り、用が済み次第とっとと帰れるように鞄を持って教室を出た。
二階の渡り廊下を通り、特別教室棟に入る。待ち合わせ場所として指定された美術室は、廊下を左に折れてまっすぐ進んだ突き当りにある。
かすかに絵の具の匂いが残る美術室には、ところどころに布の被さったキャンバスが置かれていた。壁際の棚上には数体の石膏像が並んでいる。
「あっ……来てくれたんだ、ありがとう笠井さん」
椅子に座って待っていた男子生徒が、恭二に気付いて腰をあげる。十七歳の恭二自身だ。
「呼びだしてごめん。無視されることも覚悟してたんだ……でも大事なことだったから」
話しぶりも恭二らしく振る舞っている。本人がそう思うのだから似ているのだろう。
こうして面と向かって話すのはこれが初めてだが、過去の自分自身と相対するのは黒歴史を見せられているようで、正直いってあまり良い気分ではなかった。できるなら早めに済ませたいというのが恭二の本音だった。
「……それで、用件は?」
気分の悪さを押し隠しつつ性急に切り出す。それを聞いたもう一人の恭二はわずかに眉をあげた後、
「ごめん、すぐ済むよ。だから僕も単刀直入に聞くけど……笠井さんって、笠井さんじゃないよね?」
その言葉に恭二は内心の驚きが表に出ないよう、顔の筋肉に力を込めるだけで精一杯だった。
(何でバレた……? クラスも違ければろくに話もしたこともないのに)
聖美になってからの生活で今に至るまで、この時間軸の相坂恭二とまともに関わった機会などなかったはずだ。
「お互い疑問に感じることは一緒だよ。笠井さんも僕が別人じゃないかと疑っている……だからこうして呼び出しにも応じてくれたんだと、僕は考えてる」
恭二の考えを見透かしたような発言だ。
「本物の相坂恭二だったら、女の子を放課後に呼び出すような積極的な真似はまずしないだろうから。そんなことをするくらいなら現状に妥協するだろうし」
まったくその通りだと恭二は思う。この目の前の自分が言うことは当たっている。本当に自分じゃないのかと疑いたくなるほどに。
(僕のことも笠井さんのこともよく知っている人間……か?)
そんな人物に恭二は心当たりがない。
「それまでは互いに接点もなかったし呼び出しに応じる義理はない……君が相坂恭二本人でもない限りは」
そこまで気付いているのかと、恭二は焦りを覚える。
「あのメモを読めば僕の正体について、本人なら疑いを持って当然だから。もっとも実際に来るかどうかは賭けだったけど。そういう意味じゃ、ほっとしたよ」
だがまだ確信はしてないはずだと、恭二は考える。いくらここに来ることに何の得がないにしてもゼロではない。自分が無視して帰れば相手をいつまでも待たせてしまうことになるのだから。だからまだ、今からでもやり過ごすことは可能だと彼は思った。
「何を言ってるのかさっぱりだけど?」
「別に恍けなくていいよ。君が聖美ちゃんじゃないっていうのはさっき確信したから」
「……え?」
「だって君、ここに来てすぐ用件を訊ねたよね? 本当なら俺がなぜ自分の名前を知ってるか疑問に思ってもいいところだよ?」
「あっ……」
そこでようやく、恭二は己の失態を悟った。
「聖美ちゃんでないと知らないことならともかく、君はもう少し記憶がない振りを心がけた方がいいね。周囲からはそう認知されているんだから」
思わず恭二は頭を抱える。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
「ええ、そうです……僕は相坂恭二ですよ」
「ああ、やっぱりそうかっ……俺もうすうす分かってはいたけど、そういうことかっ……」
観念して恭二が打ち明けると、稜介はなぜか苛立ったように頭を掻き毟る。
そこでふと気が付いた。先程からこの人物は自らのことは『俺』、聖美のことは『聖美ちゃん』呼びに変わっていることに。
「と、ところで……あなたは?」
恐る恐る、恭二は問いを投げる。
「君が誰か知った以上、俺が教えないっていうのはフェアじゃないよね。もともと打ち明けるつもりだったし――」
そこでいったん間を空けて、
「俺は笠井稜介。聖美ちゃんの従兄だよ」
「笠井……稜介って、だってそれは……」
それはつい先日通り魔の手によって命を奪われ、昨日葬儀を終えたばかりの人物のはずだ。
(それがどういう経緯で……まさかあれから僕の体に?)
混乱する恭二を見兼ねたのか、稜介が口を開く。
「多分、相坂くんが考えてるのとは違うよ? 俺はこの間殺されたばかりの俺じゃない。だいたい俺が君の体になったのは、それよりもっと前のことだからね」
どういうことだろう――それなら今ここにいる稜介は何だと言うつもりだろう?
「俺は今から四年後から来た笠井稜介なんだ。つまり君の場合と同じだ」
「僕と同じってことはっ……稜介さんも亡くなった後に?」
稜介も同じ年に死を迎えていた――事件か事故か病死かは不明だが。いろいろと共通点があるとは思ってはいたものの、ここまで一緒だとは恭二も驚きを隠せない。
本当に稜介とは妙な縁を感じる。
「そうだよ。気が付いたら今の体だ。だけど君と違うのは俺には相坂恭二としての記憶も残っていることだね」
「何だかそれ……狡いですね」
自分の苦労を思い返し、ついそう口にしてしまう。
「俺に言われてもね……」
稜介は困ったように眉を下げる。
「でも似た境遇同士、これからも協力しあえたらって思ってるんだ。それが今日、相坂くんに来てもらった理由でもあるんだ」
確かに自分だけではない――自分は孤独ではないという気持ちは恭二の心の支えになる。願ってもない話だった。
「それはこちらとしてもありがたいです。よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
そして恭二と稜介は、互いに固く握手を交わした。
「それじゃあ、僕はこれで失礼しますね」
「あ、ちょっと待って。君を呼んだ理由はもう一つあるんだ」
これで話は終わったのだろうと踵を返しかけた恭二を、稜介は呼び止める。
「君が相坂くんだと確信したら、謝りたいことがあったんだ」
疑問に思いつつ、恭二は再び向き直る。
「何ですか? それって」
「あのとき、ナイフで刺したこと。痛い思いをさせて済まなかった」
頭の中が、白く塗り潰される。彼が何を言ったか分からなかった。自分が何を聞いたか理解できなかった。
この男は何を口にした? 自分の聞き違いか?
「えっ……と。い、今……何を?」
問いかける声が震えているのを自覚する。
「うん。だからね――」
稜介の表情からはもう、何も読み取れない。彼が何を考えているのか分からない。
「――君は俺が殺したんだ」