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乗り越えるべき問題、こなすべき課題を突き崩していくうちに、現世での生活もひと月が飛ぶような早さで経過していた。
やること考えることの多さに頭がパンクしそうになりつつもこれまでうまくやれてきたのは、恭二自信の努力の賜物か、それとも少なからず聖美の体になった影響を受けているのか定かではない。
恭二にとって意外だったのは、聖美が身体能力にも優れているという事実だった。体育の授業では男だった前世で全力だったときよりも半分の実力で好成績だったのはへこまざるを得なかった。
『才色兼備』とは、まさしく聖美のためにあるような言葉だが――恭二としては彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
いくら外見は変わらずとも肝心の中身が劣化しているのだから、今の成績もそれなりだ。周りの慰めの言葉がまた心に突き刺さる。
なまじ以前が優秀だった分だけ落差を感じてしまい。ただでさえわずかな自信が更に失われる。
それが現在の恭二の紛れもない実力なのだからどうしようもない。
だがそう悪いことばかりでもなく、聖美の体質によるものか好物の高カロリーの食べ物を摂取しても脂肪がつきにくく、体育の着替え時などはクラスの女子に恨めしげな目で見られたりもした。
女子にこぞって己の肌をじろじろ見られたり腹の肉を摘ままれたりしたのは、恭二にとって貴重な経験となったが――あくまでそれは純粋な感情からくるものであり断じて邪な感情などでないことは言い添えておく。誰に対する弁解かはこの際、脇に置いておくことにする。
「聖美、帰りに甘いモノでも食べてかない?」
「今日は寄りたいところがあるから、ごめん……また誘って?」
「残念だけど分かった。次は一緒に行こうね」
放課後――女子の友人からの誘いを断り、恭二は一人で校舎を出た。この数日で聖美がいかに周囲から好かれているか知っていたため心苦しい思いだった。
だが恭二には、どうしても外せない用事があった。
そう――この日は連続通り魔殺人、三人目の犠牲者が出る日だったからだ。
被害者は永岡茉莉――小学校六年生の女子児童だ。学校から帰宅後すぐ近所の友人の自宅へ遊びに行き、その帰る途中で事件に遭っている。
だがあいにく恭二は以前の特集で茉莉の自宅は知っているが友人の自宅までは分からない。そのため若尾頼子のときのような手段はとれない。
それでも殺害現場は分かる。墓地を囲む塀と竹林の間を通る路地だ。襲われたのは午後五時半前後で当時はまだ日は出ていて明るかったものの、この道は人通りが極端に少ない。犯行に及ぶにはうってつけというわけだ。
とりあえず現場に赴いて周辺に怪しい人物(主に黒のニット帽に白いマスクの男)がいないかひそかにチェックしつつ、茉莉がやってくると思われる方角を時間を見て逐一確認する。後はまた何らかの口実を使って彼女を現場から引き離すことができればいい。それからは頼子のときと同じだ。
現場には近くの停留所からバスを利用する。放課後になってまっすぐ向かったものの着くのは時間ぎりぎりになりそうだ。
またあの男が――通り魔がいるかも知れない場所に行くのはさすがに怖ろしい。だが理不尽に奪われると分かっている命に対して、何もせず黙っているなどということは、とてもではないが恭二にはできそうになかった。何より彼らに何かあれば、恭二は自分自身を許せそうにない。
だが現場に辿り着いて恭二が目にしたものは、そんな彼もまったく予想していなかった光景だった。
「……は? え?」
路地の手前に設置された三角コーンとポール、そして大きな看板――。
殺害現場となるはずの路地は、アスファルト舗装の工事で通行止めとなっていた。
(どうなってる? どういうことだ、これ?)
こんなものは自分の知っている『過去』にはなかった。これは自分がかつて歩んだ『過去』ではない。
自分が経験した『四年前の今日』では、この場所で工事などやっていなかった。
(一年……早くなってる?)
本来ならここで工事が始まるのは翌年の冬になるはずだ。
(……被害者の運命が変わったから、か?)
前の二人の死が避けられた時点ですでに恭二の知っている『四年前』とは状況が違っている。それなら他にも周囲を取り巻く環境に変化があっても不思議ではない――そう恭二は思い至った。
(だとすると、どうなる? 彼女は別の場所で襲われるのか? それとも彼女が被害者となる運命そのものがなかったことになるのか?)
どのように未来が改変されたのか、神ならぬ恭二には知りようもない。
日が落ちた後ならいざ知らず、周辺は住宅街でどこに人の目があるか知れたものではない。他の道で狙うにしても待ち伏せにしてもあの格好では目立つし顔を隠してるとはいえ、わざわざそんな危険を冒してまで犯行に及ぶメリットはない。ここより適した犯行場所はないはずだ。
いったい、犯人はどうするつもりなのだろうか?
闇雲に歩き回ったところで茉莉が遊びに行った友人の自宅がどこか分からず、現場の道も使えない。おまけに入り組んだ住宅街とあってはお手上げだった。
そうこうしているうちに、時間は五時半を回ろうとしていた。
(ここにいてもしょうがない。彼女の家が見える場所に行くか)
そう判断して茉莉の自宅へと足早に移動した。玄関前が確認できる離れた距離で様子を窺う。あまり長居はできない。こちらが不審者と思われては目も当てられない。
現場から来る途中で目にしなかったということは、茉莉はまだ自宅にはいないということだろう。
「…………」
じりじりとした気持ちで、恭二は待ち続ける。
犯人が今日工事が行われることを知らず、目撃されるおそれにある場所で犯行に及んだりしない可能性に、恭二は賭けた。
「…………」
そうして、十分が経過した。
子どもらしき影を見つけるたびに注目し、人違いと分かり落胆する――その繰り返しだ。
「そろそろ、帰ってきても……」
すでに時間は二十分も過ぎてしまっていた。
(遅すぎないか? まさか……)
時間とともに思考が悪い方に傾いていく。痺れを切らして動こうとして――
(あっ……)
遠くから走ってきた、小さな影が見えた。
(彼女だ……)
恭二が待っていた当人――永岡茉莉は自宅の門をくぐり、玄関の中に入って行った。
「ふぅ……」
口から安堵の吐息が漏れる。
(どうやら今回も回避……いや、僕は何もしてないか)
いつのまにか自分の知る『四年前』と変わったことが、今回はいい方向に働いたのだろう――だが一方でまた無視できない問題がある。
(これだけ違ったら、もう前世の記憶は役に立たないな……)
あと何人が狙われるのか、誰が狙われるのか、そもそも次が存在するのか――未知なことが多い。
これから先はどんな不測の事態が起こるか分からない。気を引き締めていくべきだろう。
自宅に帰り、夕食時には家族で食卓を囲んだ後、先に湯船に浸かる。
聖美になってまだ日が浅かった頃、男の恭二にはぴんとこなかったが、この家では必ず父が最後に入浴するのが暗黙の了解らしい。確かに年頃の女の子なら嫌がるかも知れないが恭二は気にしない。それで「自分は最後でも構わない」と母に伝えたところ、
「やめておきなさい聖美。それなら入らない方がマシよ。綺麗になるどころか逆に汚れるはめになるから」
さらりと毒を吐く母につい父の方を見やると、
「……構わないよ聖美。先に入ってきなさい」
そう口にする父の背中は、いつもより小さく見えたものだった。
入浴後は自室でこの間の休日に買ってきたライトノベルを呼んで過ごす。
「……?」
母が電話でやりとりする声が部屋の外から聞こえた。やけに大きく切羽詰まった声だ。
(どうしたんだろう? 何か良くないことでもあったのかな?)
読書を中断して部屋を出る。ちょうど電話を終えたらしい母の表情からは余裕が失われている。
「……何かあった?」
「あっ、あのね聖美っ……落ちっ、落ち着いて聞いて欲しいんだけどっ……」
「いや、落ち着かないといけないのはお母さんの方だよ?」
「そっ……そう、ね」
それから母は何度か深呼吸を繰り返し、
「そ、それでね聖美っ……今っ……」
ようやく、電話の内容を口にした。
「稜介さんが、刺されてっ……ついさっき、亡くなったって……」