在りし日の笠井聖美
それは笠井聖美が通り魔事件に遭う、数日前のこと――。
登校してきた榊里奈の目に入ったのは、ちょうど下駄箱で上履きに履き替えている親友の姿だった。
「おはよう聖美っ!」
「わっ!?」
後ろから抱きつき、ついでに胸を揉みしだく。
「ふへへへっ、聖美のおっぱい大きい柔らかいっ……」
直後、ごんっ――と頭頂部に肘を落とされ、頭を抑えてうずくまる。
「痛い痛いです聖美さん」
「調子に乗らないの。本当に朝から元気ね……そのエネルギーをもっと別のことに向けたらどうなの?」
涙目で見上げると呆れ返った親友――笠井聖美の視線とぶつかる。
「何を言うのかね聖美さんや。あたしのエネルギーの源は聖美。だから毎日聖美から補充しないといけないのさっ! というわけでぎゅってしていい?」
「……駄目に決まっているでしょう」
そう口にする聖美の声に覇気がない。
「聖美は低血圧で朝に弱いからね。あたしの元気を分けてあげるよっ! 元気を分けるには体を密着する必要があるからやっぱりしてもいい?」
「……気持ちだけ受け取っておくわ」
「なにおうっ! あたしはね聖美。親友として聖美のことを心配してだねっ――」
「里奈に抱きつかれると逆にこちらのエネルギーが奪われていく気がするのよ。ほら里奈の好きなゲームで敵がよく使うでしょう? エナジードレインっていうやつ」
「あんまりな言い草っ……もうやめてっ! あたしのHPはもうゼロだよっ!」
「……そう言いながらも顔がだらしなくゆるんでいるのはどうして?」
「いや何かこの雑な扱いも、これはこれで悪くないっていうかっ……」
聖美は顔を引きつらせて後退さる。
「何だか、日毎に里奈の変態ぶりに拍車がかかっていっている気がするけれど……」
「あたしはずっとこれが平常運転だよっ!」
「初対面のときはもっとまともだった気が……うん、もう少し里奈との付き合い方を見直すべきかな」
「すみません聖美さんっ! 見捨てないでくださいっ!」
里奈は聖美の脚に縋りつく。ついでに太腿に頬をすりすりさせる。
「分かった! 冗談だからやめてっ! みんな見てるからっ!」
聖美の叫びに周囲を見てみると登校してきた男子のグループが顔を赤らめながら顔を逸らしながら立ち去って行く。
「くっそ……榊になりたい……」
そんな羨望のこもった声が耳に届いてきた。
「へへん、どうだい。聖美にあんなことやこんなことができるのは、あたしだけの特権だい」
「本人を無視して勝手に権利を主張しないで」
聖美は深い、それはもう深い溜息を吐く。
「何が原因なのか、今年になってから妙な噂が流れているのよ……それによると、どうやら私は女の子の方が好きみたいよ?」
「知ってるよ。何でそんな噂が流れたんだろうね?」
不思議そうに首を傾げる里奈の頬を、額に青筋を浮かべた聖美が思い切り引っ張った。
「どの口でっ……言っているのっ? 誰のせいだとっ……思っているのっ?」
「いひゃいよ、ひよみぃっ……」
「反省してる?」
「ひゅみまひぇんひよみふぁんっ……あはひほへいへふ、はんへいひまふおゆるひふぉっ……」
「何を言っているか分からないわよ?」
「『すみません聖美さん。あたしのせいです、反省しますお許しを』だそうですよ」
割って入った少女の声の方に聖美は顔を向けると、それはクラス委員長の河北柚葉だった。
「あ、おはよう河北さん」
「おはようございます笠井さん……自業自得とはいえ、さすがに見ていて可哀想になってきたのでそろそろ離してあげては?」
「河北さんがそう言うのなら」
言って聖美は里奈の頬から手を放す。
「里奈、河北さんに感謝するのね?」
「ありがとうございます河北様。あなた様はあたくしの命の恩人でございます」
「あなたって子は……」
「お二人はいつも仲が良いですね」
「本当にそう見えるのなら河北さん。そろそろ眼鏡の買い替え時だと思うわ」
「大丈夫です。つい先日予備の眼鏡を見に行った際に視力検査を済ませたばかりですから」
「……そうなの」
真面目に切り返されては聖美も二の句が継げない。
「私はこれで失礼します。お二人も急いだ方がいいですよ」
言って、柚葉は廊下を去って行った。
「はぁ……馬鹿なことで無駄に時間を浪費したわ。後で利子をつけてきっちり返してもらわないと」
「おおうっ、何だか急にぞくぞくしてきたっ……」
「早く行くわよ? このままだと本当に遅れそう」
「あっ、待ってよ聖美ぃっ」
先に行く聖美の後を、里奈は早足で追う。
榊里奈にとって笠井聖美は自慢の親友だ。容姿も頭も運動神経も抜群なのにそれを鼻にかけたところがない。『天は二物を与えず』というがあてにならないと里奈は聖美を見て思う。
だが聖美と知り合ってからというもの、どうも嫌な予感がしてならない。そう遠くないうちに聖美が――自分の親友が、自分の手の届かないところにいって、二度と戻ってこなくなるような。
何の根拠もないただの勘といってしまえばそれまでだが、こういう悪い予感に限ってよく当たるものだ。
それは俗にいう虫の知らせ――聖美へと着実に忍び寄る死の影を、里奈は感じっていたのかも知れない。
そしてそれは日増しに強まるのと同時にそんな不安を消し去りたい、聖美を自分のいるこの場に繋ぎ止めておきたいという気持ちも大きくなる。
それが聖美への過剰なスキンシップが始まったきっかけでもあったが――本人にその自覚はまるでない。
「何よ? 急に黙り込んで」
ふいに聞こえた聖美の声に、里奈ははっと我に返る。
「ううん、ちょっとぼーっとしてただけ」
「考え事をしていたわけではなくて、ぼんやりしていただけね……なるほど、里奈らしいわ」
「何気に酷い言われよう……だがあえて否定はすまい」
そんな軽口を叩き合いながら教室まで二人で歩いていく。こんな会話を交わすのもいつものことだ。
ごく当たり前になった聖美とのやりとり――明日も明後日も同じように続くのだと、疑う余地もない。
それでも里奈の不安は拭えない。この不安がなくなるのはいつになるのだろう?
「あのさ、聖美」
「……何?」
「聖美は……これからもずっと、あたしの親友だよね?」
不安が言葉をついて出る。声が震えなかったのが幸いだった。
それでも里奈の口調に何かを感じ取ったのか、聖美は足を止めて訝しげに彼女の顔を見た。
「どうしたの? 変な物でも食べた?」
「失礼なっ……あたしは聖美が親友で良かったと思うけど、聖美はさ、どう思ってる?」
質問の意図を測りかねたのか、聖美の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
「そうね……無駄にハイテンションでセクハラが過ぎると思うけれど、里奈のその明るくて元気で前向きなところは美点だと思うし、里奈の笑顔は見ていると嫌なことも忘れられるから好きよ。だから私も里奈と親友になれて本当に良かったとっ――て私は何を言っているのっ!? 口が滑ったわっ!! 今のは聞かなかったことにしてっ!」
自身の発言に突っ込むと真っ赤な顔を逸らして、聖美は歩き出す。
「だよねっ! こんなのあたしらしくもないっ!」
不吉な予感も不安な気持ちも蹴散らすように大きな声を出して、里奈もまた足を進めた。